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第7回【割拠する群雄】その1【囲魏救趙】天才軍師による華麗な復讐劇

 戦後時代最初期の覇権国だったですが、人材の流出によりその力は衰退していきました。特に商鞅しょうおうしんに仕官したことは魏にとって大きな痛手になりました。
 そして商鞅とほぼ同時期流出したもう一人の天才により魏は致命的な大敗北を喫します。

旧友の裏切り

 文候ぶんこうの孫・恵王けいおうには龐涓ほうけんという将軍が仕えていました。龐涓は旧友の孫臏そんぴんという人物を、就職先を紹介してあげようと言って魏に招きました。
 しかし、魏にやってきた孫臏を冤罪で投獄し、顔面に入れ墨をして両足を切断しました。孫臏の軍事の才能に嫉妬したと言われています。孫臏を殺害までしなかった理由は不明です。ほんの少しの後ろめたさがあったのか。それとも自分より優れた男の悲惨な様子を見たいというサディスティックな欲求があったのか。今となっては知るすべはありません。
 両足を切断されたと言う説と、膝蓋骨を粉砕されたという説がありますがどちらにせよもう二度と立ち上がることは不可能であり、将軍としてのキャリアを断たれたことになります。
 古代中国では足を切断する刑罰のことを臏刑ひんけいといいます。孫臏の臏はこれに由来する通称で、本当の名前はよくわかっていません。

 孫臏は魏と龐涓への復讐を誓いますが、当然一人では脱走することは不可能です。そこで、外交使節としてせいから来ていた田忌でんきという人物と密かに連絡を取ります。
 史記の記述によると田忌の方から接触してきたようです。孫臏は百年以上前の兵法家・孫武そんぶの子孫だったため廃人となった後でも目立つ存在ではあったようです。
 孫臏は田忌の協力によりなんとか魏を脱出します。

 斉は春秋時代に桓公かんこうを排出し、一時期は覇権国となりますが桓公の死後は衰退しました。そして、国内の有力貴族であるでん氏により国を乗っ取られていました。
 国内のゴタゴタにより衰退したとはいえ、周の大軍師・太公望たいこうぼうや名宰相・管仲かんちゅうの手腕により著しい経済発展を遂げていました。そこに田一族がガッチリと権力を握ると斉は再び強大化していきます。元々国としてのポテンシャルは非常に高いので、政権が安定すると他国を圧倒してしまうんですね。
 孫臏がやってきた時期の斉は全盛期の力を取り戻しつつある最中でした。

異形の天才軍師・孫臏

魏を囲んでちょうを救う

 斉で孫臏は田忌に競馬必勝法を授けて大勝ちさせたことをキッカケに、斉の威王いおうに推挙されました。威王は孫臏の頭脳を評価し、兵法の師匠として丁重にもてなしました。

 紀元前354年、魏では龐涓が8万人の軍勢を率いてちょうの首都・邯鄲かんたんに侵攻します。当時最強国である魏の前に趙はピンチに陥り、斉に応援を要請します。
 斉の威王は総大将に田忌、軍師として孫臏を趙救援に派遣します。田忌は邯鄲を包囲する魏の遠征軍に決戦を挑もうとしますが、孫臏が提案した作戦は全く別のものでした。
 孫臏の作戦は主力を趙に派遣して手薄になっている魏本国を攻撃することでした。奇襲を受けた魏本国は混乱状態に陥り、遠征軍への補給ルートも破綻してしまいます。実はこの時既に趙の首都・邯鄲は陥落していましたが本国からの補給が途切れた遠征軍は撤退を余儀なくされます。孫臏は遠征軍の退却ルートを予想して、現在の河南省かなんしょう新郷市しんきょうしにあたる桂陵けいりょうで待ち伏せをします。
 遠征と急な帰国により疲労の極地にあった魏軍と、準備万端待ち構えていた斉軍との戦いは一方的なものになりました。魏軍の総大将・龐涓は捕虜になり、魏軍は大敗を喫しました。

 捕虜になった龐涓はその後すぐに釈放されたようで、すぐに魏の将軍として復帰します。敗れたとはいえ、将軍としての能力は高かったようです。

此の樹の下に死す

 桂陵の戦いで魏が敗退したことは他国に大きな影響を与えました。特に魏の隣国・かんは敗戦の痛手が残る魏への攻撃を開始しました。しかし、李克や呉起が強化した魏の国力の前に韓は連戦連敗を重ねます。
 ついに韓は龐涓率いる魏軍の逆襲により滅亡寸前にまで追い詰められてしまいます。追い詰められた韓は斉に応援を要請します。斉の威王は再び総大将・田忌、と軍師・孫臏の黄金コンビを派遣します。桂陵の戦いから13年後、紀元前342年のことでした。

 孫臏の作戦は前回と同じく魏本国を攻撃し、韓への攻撃を中止させるというものでした。しかし、今回は韓への攻撃を中止させることには成功しましたが、龐涓は素早く引き返して斉軍との決戦に臨みます。桂陵での敗戦に学び、孫臏の作戦を看破していたものと思われます。
 兵力的には斉軍12万人に対して魏軍10万でしたが、呉起以来少数精鋭主義で鍛えられ続けた魏軍の強さは斉軍を圧倒していました。まともにぶつかれば勝ち目はないと判断した斉軍は決戦を避けて撤退を開始します。
 逃げる斉軍を龐涓は追撃します。追撃中に斉軍の野営地を観察すると、日を追うごとにカマドの数が減っていることがわかります。これは斉軍の、特に最後尾の兵士が減少していっていることを指し示していました。脱走兵が発生していると判断した龐涓は騎兵を中心にして斉軍を猛追撃します。
 龐涓が現在の山東省さんとうしょう臨沂市りんぎしにある馬陵ばりょうという両側が山に挟まれた細い道に到達した時、既に日が暮れていました。馬陵に生えていた大木に、何やら字が書かれていることを龐涓は発見します。あたりはすっかり暗くなっており、何が書いてあるのか読めません。龐涓はひときわ大きな松明を用意して、その文字を確認しました。

「龐涓は此の樹の下に死す」

 山に潜伏していた1万人の斉軍からの一斉射撃が行われたのはその直後でした。

二千年の汚名

 斉軍の退却は始めから計算されたものでした。カマドの数が減っていったのも、脱走兵が発生していると誤認させるためです。そして、最後に馬陵の大木に大きな明かりが近づいたら、そこを狙い撃つようにと指示もしていました。全ては孫臏の作戦通りだったのです。
 斉軍の一斉射撃により致命傷を負った龐涓は
「あの小僧に名を挙げさせてしまったか」
そう言い遺して自ら命を絶ちました。

龐涓の名は孫臏を裏切り、孫臏に敗れた男として遺る

 龐涓の死により魏軍は大混乱に陥ります。この戦いには総大将として魏の恵王の子供で王太子であるしんも参加していましたが、もちろんこれはお飾りの大将で混乱した軍団を制御することはできません。王太子・申は斉軍の捕虜となります。
 結果として斉軍の被害は軽微だったのに対して、魏軍はほぼ全軍が死傷あるいは捕虜になるという大敗北を喫します。
 呉起の亡命後徐々に衰退しつつあった魏でしたが、馬陵での敗戦は致命的でした。斉はもちろん、西からは国政改革に成功した秦の商鞅による攻撃を受け、領土を大幅に奪われてしまうのは前回お話したとおりです。

 孫臏は馬陵の戦いを最後に歴史の表舞台から退場します。短期間で限定的な活躍ではありましたが、孫臏の名は天才的な兵法家として2000年以上もの間語り継がれています。龐涓の最期の言葉通りに。
 そして龐涓の名前も語り継がれて来ました。孫臏を裏切った男として。孫臏に敗れた男として。