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第8回【斉の明暗】その3【火牛之計】逆襲の戦神

 不世出の名将・楽毅がくきによって大国・せいの領土はわずか2城のみとなりました。しかし、楽毅の侵攻によって眠れる獅子が眼を醒まします。
 そして、両雄の戦いは意外な結末をもたらし、戦国時代は新しい局面を迎えます。

もう一人の天才・田単

無名の男

 田単でんたんという男はその名前からわかるとおり、斉の王族の出身です。しかし田氏は傍系の者も多く、田単は首都・臨淄りんしの市場で働く小役人に過ぎませんでした。

 転機となったのは紀元前284年に発生した済西せいせいの戦いでした。斉軍の敗北を知った田単は安平あんぺいという町に避難しました。
 楽毅の侵攻はまだまだ続くことを予見した田単は急いで馬車を鉄で補強し、長距離移動にも対応できるようにしました。
 田単の予想通り、燕軍は安平にも攻撃してきましたが、多くの人々はこの攻撃を予想できなかったため、十分なメンテナンスをしない馬車で避難した結果、事故によって多くの死傷者が発生しました。楽毅の行動を読んでいた田単とその家族は悠々と避難できました。

 田単は現在の山東省青島市ちんたおしにある即墨そくぼくという地方都市まで避難します。斉のなかではあまり大きな都市ではなかったようです。
 即墨を守っていた人物は燕軍との決戦に挑み戦死してしまいました。この時即墨市民から代理のリーダーに推薦されたのが田単でした。楽毅の戦略を見抜いて安全に避難していたことから、その頭脳が高く評価されていたようです。

 即墨には斉の他の地域からの避難民も逃げ込んでいましたが、田単は生活の援助や職業の斡旋などを行ったため、城内に大きな混乱が起きることはありませんでした。

即墨そくぼく籠城戦

 楽毅は力づくの攻撃を良しとせず持久戦で即墨を攻略しようとしますが、田単はこれに抵抗します。そして燕軍の侵攻から5年目の紀元前279年、燕復興の名君・昭王しょうおうが亡くなります。昭王と楽毅の間には強い信頼関係がありましたが、昭王の子供で新たな燕王となった恵王けいおうは楽毅を信頼していませんでした。

 昭王が亡くなった直後、燕国内で次のような噂がまことしやかに囁かれるようになりました。
楽毅が燕に帰ってこないのは燕で独立しようとしているからだ。わずか2つの城の攻略に時間をかけているのは、その間に斉国民を懐柔しているたからだ。
 斉国民が恐れているのは他の将軍に交代することだ。即墨はもう少しで落城する」
 恵王はこの情報を得て、斉に騎敖きごうを派遣し楽毅を解任します。
 楽毅はこのまま燕に帰国すると粛清される危険性があるため、ちょうに亡命してしまいました。

 一方の即墨城内では田単が群衆の眼の前で儀式を行っていました。そしてその儀式で田単は
「もうすぐ神様が使いが即墨に降臨して我らを導いてくれるだろう!」
すると
「オレが神様の使いかもしれないぞ!」
と言い出す男がいたので、田単は自称・神様の使いに対して言います。
「どうか我らを導いてください」
自称・神様の使いは慌てて冗談だったと言いますが、田単はそれを知った上で彼を神の軍師・神師として祭り上げます。

 着任した騎敖の元には様々な情報を入手します。
「斉国民は燕軍の捕虜となった斉兵を心配している。もしも捕虜が虐待されたら、抵抗する気力が無くなってしまうだろう」
「斉国民は自分たち先祖の墓が破壊され、亡骸を辱められることを恐れている。そんな事になったら抵抗を諦めてしまうだろう」
 騎敖は捕虜となっていた斉兵の鼻を削ぎ落としたり、墓を破壊して遺体を損壊したりしました。そしてそれを即墨の前で晒し者にしました。

 燕軍の陣地から即墨を確認すると見張りをしているのが鎧を来た女性や年寄りなど非戦闘員が増えていることに気が付きました。
 更に即墨城内の富豪たちから密かに
「落城したら自分の屋敷は略奪しないで欲しい」
という手紙が届くようになり、燕軍は即墨陥落は目前であると判断するようになりました。

火牛の計

 言うまでもありませんが、楽毅の更迭から一連の流れは田単の工作によるものでした。
 田単という武将の強みは情報です。情報を収集し、分析し、活用することを得意とした人物です。そして、偽情報を流布させて味方や敵の感情や行動をコントロールすることにも長けていました。
 即墨の住民や兵士は神様の使いが降臨したことにより気力が充実し、多少不自然な命令であってもよく従うようになりました。更に斉軍の蛮行により戦意・殺意が10倍になりました。逆に勝利が近いと思った騎敖率いる燕軍はすっかり油断してしまいました。

 しかし、依然として状況は田単にとってまだまだ圧倒的に不利でした。どれだけ士気を高めて油断を誘ったところで戦力が劇的に変わるわけではありません。田単は一度の戦闘で燕軍に再起不能な打撃を与える策を編み出します。

 その晩、燕軍に殺到したのは千頭余りの牛の群れでした。牛の角には刃物が、しっぽには火の付いた松明たいまつがくくりつけられていました。松明の熱さで狂乱状態になった火牛の群れにより燕軍は炎上し多数の死傷者が発生します。
 当然攻撃はこれだけではありません。即墨の精鋭五千人が大混乱の燕軍を殺戮して回ります。城からは女性や老人など非戦闘員が鐘や銅鑼を大音量で鳴らして燕軍の混乱に拍車をかけました。
 兵士はもちろん非戦闘員や動物まで使った文字通り乾坤一擲の総攻撃により、燕軍の主力部隊は一夜にして消滅総大将の騎敖も戦死しました。

 即墨での敗北を受けて斉の各地で燕軍への反撃が開始。楽毅更迭後は捕虜の虐待や遺体の破壊などで燕に靡きつつあった人心も一気に離れていたため、燕軍は完全に崩壊してしまいます。元々燕と斉では圧倒的な国力差があったため一度劣勢になると立て直すことはできなかったようです。
 というか、恵王や騎敖など燕の首脳陣が楽毅の意図を欠片も理解していなかったことがよくわかります。多分、昭王亡き後楽毅を一番理解していたのは最大の敵である田単だったのではないでしょうか。

即墨で燕軍は田単の『火牛の計』により壊滅する

報遺燕恵王書

 燕軍敗退を知ったとき楽毅は亡命先の趙にいました。そんな楽毅の元に燕の恵王から手紙が届きました。
「私は楽毅将軍が長年働き詰めだったので帰国して休息ながらじっくり今後の国政について相談しようと思ったからです。
 しかし、将軍は何を勘違いしたのか燕を捨てて趙に行ってしまいました。亡き昭王があなたをどれだけ大事にしたかお忘れではないでしょうね」

恵王にとって恐ろしいのが楽毅の報復です。そこでこのような情けない手紙をよこしてきたわけです。自分は悪くないと言い訳をしながら、父親を持ち出してマウントを取ろうとするクソダサい内容です。

 普通ならブチ切れていそうな手紙を受け取った楽毅ですが、彼の回答はこのようなものでした。長いので途中は端折ります。気になる方はインターネットで検索してみてください。
「私は不肖の者で、王の名を受けたにも関わらず期待に沿うことができませんでした。また、先代の昭王様や恵王様の名誉を傷つけることを恐れて趙に亡命したのです。
 今回恵王様は私の罪を責めますが、何故昭王様が私を信頼してくださったか、何故私が昭王様に仕えるようになったのかご理解いただきたいのでこの手紙を書きました。

(中略)

 私の願いは罪を得ることなく功績を立て、昭王様のご威光を輝かせることです。逆に謂れのない誹謗中傷を受けて昭王様の名を汚すことが何より恐ろしいのです。すでに思いもしない疑いをかけられた身としては、その上で燕を攻めるなど義心に反する行いです。

『君子は友人と絶交しても悪口は言わない。忠臣は国を捨てても身の潔白を弁明しない』という言葉があります。私は不肖者ですが、この言葉を常に胸に抱いています。
 私は恵王様が身近な者の意見だけを信用し、遠くにいる者の事を誤解することを恐れていますので、このような書面を書かせていただきました。
 恵王様のお心にご留意いただければ幸いです」

 今は亡き昭王への忠義を切々と書き記したこの文書は『燕の恵王に報ずるの書』と言われ、三国時代の諸葛孔明しょかつこうめいが書いた出師表すいしのひょうと並んで
『これを読んで泣かない者は忠臣ではない』
と、言われる名文です。

 当時の人間の意見や考えが記録された非常に貴重な例です。楽毅が今日まで高く評価され続けたのは、その強さや能力だけでなく、その高潔な人柄も理由のひとつであることがよくわかります。
 楽毅はその後、亡命先の趙で亡くなります。いつ亡くなったか、どのように亡くなったかという記録は調べた限り見つけることはできませんでした。

漁夫の利

 一方、勝者である田単も斉の襄王じょうおうにその功績と能力を危険視され命を狙われたこともあったようです。一応は襄王と和解しますが、襄王死後に趙で宰相さいしょうになっていることから斉を離れたことがわかります。
 田単の足跡は趙で途絶えてしまったため、そこで亡くなったと思われます。田単が趙の宰相になったのは紀元前265年頃で、楽毅が趙に亡命したのが紀元前279年なのでこの二人はもしかしたら趙で出会っているかもしれませんが、そのあたりの記録も見つかりませんでした。

 燕と斉の戦いは両国に甚大な被害を与えました。燕は主力部隊が斉で消滅したため軍事力が大幅に減退しました。斉も一時的とは言え領土のほぼ全てを占領されたことから、往年の力はすっかり無くなってしまいます。
 斉と秦の二強状態から斉が没落し、斉と戦った燕も弱体化したためこれ以降は単独で秦に対抗できる勢力が存在しない一強の時代となります。

 燕が斉への攻撃をする前に他の諸侯との関係を改善する必要がありました。特に軍事大国・趙は燕への攻撃する姿勢を見せていました。
 そこで燕の外交官・蘇代そだいは趙の恵文王けいぶんおうを説得しました。

「私がここに来る途中、易水えきすいを通過しました。
 どぶがいが中身をさらけ出していた所、しぎがこれを啄もうとしましたが、蚌はクチバシを挟み込んでしまいました。
 鴫が言います。
『今日も明日も雨が降らなければ、お前は干乾びて死んでしまうぞ』
 蚌が言い返します。
『今日も明日も離さなければ、お前は飢えて死んでしまうぞ』
 両者とも譲らなかった所、漁夫が両方を捕まえてしまいました
 今趙は燕を攻めようとしていますが、燕と趙が争えばどちらも疲れてしまうでしょう。私が危惧するのは強国・秦が漁夫となることです。
 恵文王さま、よく考えていただけませんか」

 趙の恵文王は蘇代の説得を受け入れて燕への攻撃を中止しました。
 有名な『漁夫の利』はこの時期のお話です。
 皮肉なことに燕と斉の争いの勝者は、漁夫となった秦でした。