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第6回【三晋の独立と魏の盛衰】その2【吮疽之仁】魏の隆盛と秦の受難

戦国最初の名君

 魏駒ぎくの子供・魏斯ぎししゅうから正式に諸侯として認められたため文候ぶんこうと諡されます。このの文侯は戦国時代最初の名君と言われる人物です。
 文侯の優れていた点は優秀な人物をよく起用したことです。忠義の名将・楽羊がくよう孔子の孫弟子で合理的な政治家・西門豹さいもんひょうが代表的な人物です。特に重要なのは中華史上初の成文法を定め、後世の政治システムの手本となった李克りこく。そして、武廟ぶびょう十哲じゅってつの一人に挙げられる天才兵法家・呉起ごきでした。

孫子と並び称される兵法家・呉起

異能の天才

 呉起は元々国外であるえいの出身者でした。故郷では自分を侮辱した者30人を殺害し、弱小国・では将軍として超大国・せいを撃破するも出世のために妻を殺害したという曰く付きの人物でした。文侯から呉起を登用するべきか相談を受けた李克も
「人格は最低だが戦争の天才である」
という評価をしました。なかなか扱いが難しそうな人物です。しかし、文侯は呉起の才能を愛し、さらに呉起もそれに応えました。

 呉起は少数の軍隊を精鋭として鍛え上げ、黄河の西側にあたる河西かせい地方、つまりしんの領土に侵攻しました。呉起は74の戦いに臨み64度完勝し千里の領土を得たと言われています。
 紀元前389年、文侯の死を好機と見た秦は50万の軍団を率いて魏に攻め込みますが、呉起は歩兵5万、戦車5百、騎兵3千の新兵で撃破したと伝わっています。数字に誇張はあるでしょうが、呉起の強さがずば抜けていたことがわかるでしょう。秦は河西方面の戦いで呉起の前に連戦連敗を重ねていきました。

天才軍師の実像

 せんじんというお話があります。ある兵士が怪我をした時、上官である呉起が膿を口で吸い出して治療をしたことがありました。それを聞いた兵士の母親が嘆き悲しみます。周囲の人々は部下を大切にする上官を持ったというのに何故悲しむのかと尋ねます。
「あの子の父親も怪我をした時も呉起様が治療してくれました。それに感激した夫は呉起様のために命がけで戦い、戦死しました。息子もきっと同じ運命を辿るでしょう」
 天才軍師とか天才将軍というと奇想天外な作戦で勝利するイメージですが、呉起は人材育成と人材活用に長けた優秀なモチベーターだったのではないかなと思います。今日に残る業績や言行からはそのような人物像が浮かび上がります。新兵であればどんな状況でモチベーションが上がるか、などといった発言が今に残っています。もちろん極めて高い軍事的才能も持っていたことは間違いないのですが。

呉起の出奔と死

 名君・文侯の元隆盛を極めた魏ですが、文候の死後人材の流出が始まります。文候の子・武侯ぶこうの時代には呉起も魏を離れてしまいます
 呉起は悼王とうおうに仕えて政治改革に挑み成果を上げますが、悼王死後に改革によって既得権益を侵された貴族たちに殺害されてしまいます。
 呉起の死については逸話があります。反対派に追い詰められた呉起は亡くなった悼王の棺に覆いかぶさります。反対派は王の棺ごと呉起を弓矢で撃ち抜きます。呉起はもちろん絶命するのですが、王の亡骸を傷つけた者たちも罪に問われてしまいます。既に亡くなっているとはいえ、王様の体を傷つけるわけですから大変です。結果的に呉起を襲撃した者の多くが家族諸共処刑されてしまうんですね。
 死の間際にとんでもない罠を仕掛けたわけです。

没落の始まり

 呉起を失った魏では武侯の子・恵王けいおうの時代になると商鞅しょうおう孫臏そんぴんという超一流の人材を抱えながら他国に流出させてしまいます。『孟子もうし』に度々登場しアホな発言をして孟子に諭されるりょうの恵王とはこの魏の恵王の事です。梁は魏の別名です。
 また、魏は立地的に中原ちゅうげんの中心部に存在し、経済や文化の中心地であり人材や物流が集まりやすいというアドバンテージがありました。
 しかし、弱小国が滅び他の七雄が強くなってくると七雄同士での領地の奪い合いをするケースが増加しました。秦の場合は現在の四川省しせんしょうにあたるしょくなど、七雄の支配地域以外に領土拡大の余地がありましたが、魏は実力が拮抗する他の七雄と戦う道しか残されていませんでした。
 魏は時代が進んで他の七雄が強くなるにつれて徐々に、しかし確実に没落していきました。