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第4回【放浪十九年・晋の文公】

お家騒動

 しん文公ぶんこう重耳ちょうじせい桓公かんこうと並んで、必ず春秋の五覇に数えられる人物です。文公は大国・晋の公子こうしとして生まれ、即位した後は晋を覇権国にまで押し上げました。
 しかし、彼の生涯は決して順風満帆なものではありませんでした。

重耳ちょうじと兄弟たち

 紀元前676年せい桓公かんこうが即位してから10年目に晋では献公けんこうが即位しました。
 晋の献公は即位前から勇猛な人物だったようで戦場でも活躍していたようです。即位してからも積極的に出兵し、17の国を併呑して38の国を服属させたと言われています。晋が元々大国だったこともありますが、晋の献公は軍人としては優秀だったようです。

 軍人として、君主としては有能だった一方私人としてはどうだったのでしょうか。時代が時代なので晋の献公には複数の奥さんとたくさんの子供がいました。
 斉の桓公の娘・斉姜せいきょうとの間には後継者候補筆頭の申生しんせいと後にしん穆公ぼくこうの妻になる娘・穆姫ぼくきがいます。
 北方異民族である北狄ほくてきのひとつ・白狄はくてき出身の娘・大戎だいじゅう狐姫こきとの間には重耳、大戎狐姫の妹・小戎子しょうじゅうしとの間には夷吾いごという息子がそれぞれいました。
 そして、晋の献公が晩年に最も寵愛した女性が驪戎りじゅうという異民族出身の驪姫りきです。驪姫との間には奚斉けいせいが、驪姫の妹・少姫しょうきとの間には卓子たくしという息子がいました。

 異民族出身の妻が多いのはそれだけの晋の力が広範囲に及んでいた証拠と言えるでしょう。外交上の理由もあったと思われます。当時蛮族とされていた異民族との婚姻を積極的に行っているのは晋の特徴であり他国では余り見られません。異民族出身の女性と結婚した結果、同族の男性が臣下として活躍するケースも多く見られます。
 婚姻を絡めた対異民族政策は晋の特徴ですが、秦では穆公が積極的に異民族・西戎せいじゅうの対策を行ったのは前回お話したとおりです。また、長江流域の大国・も南方異民族・南蛮なんばんを従わせていますし、斉はそもそも太公望たいこうぼうが周の権威に反抗的な東夷とういを討伐するために封建ほうけんされた国です。積極的な対異民族政策の実施と成功は春秋時代の強国の特徴と言えるかも知れません。
 ただ、晋の献公の場合は姉妹で娶っているあたり趣味嗜好もあったと思いますが。

驪姫の乱

 晋の献公の子どもたちの中で特に優秀と言われていたのが申生、重耳、夷吾の3人でした。
 申生は後世その人柄を評価されています。
 重耳は賢者との交流することを好み人望がありました。若い頃から趙衰ちょうすい狐偃こえん賈陀かだ先軫せんしん魏武子ぎぶし五賢士ごけんしと呼ばれる人々が重耳の元に集まっていました。狐偃は重耳にとって母方の叔父にあたる人物です。
 夷吾は機知に富むとの評判がありました。

 優秀な後継者候補に恵まれ、晋の未来はあんたに思われていました。しかし、奚斉の母・驪姫は非常に野心的で危険な女性でした。驪姫は自分の息子を次の晋の君主にしようと暗躍します。手始めに不倫関係にあった晋の献公の側近と共謀して3人の後継者候補を国境防衛という名目で首都から遠い土地に赴任させました。首都は驪姫とその派閥が掌握することになります。

 はじめにターゲットとなったのは後継者筆頭の申生でした。
 晋の献公が即位してから23年目の紀元前656年、その時すでに死んでいた申生の母・斉姜の法事が行われました。驪姫は申生が用意した飲食物に猛毒を混入しました。申生が用意した食事を食べようとした晋の献公を驪姫が止めます。
「口に入れるものには毒味が必要でしょう」
驪姫は近くにいた犬に料理を食べさせます。何故そんなところに犬がいたかはわかりませんが、とにかくいたんでしょう。毒入りの食事を食べた犬はかわいそうに即死します。
 続いて驪姫は近くにいた宦官かんがんに料理を食べさせます。もちろん宦官も即死します。わざわざ宦官にも毒味させた理由は不明です。驪姫の残虐さを強調する創作かもしれませんし、本当だったのかもしれません。とにかく驪姫は申生を晋公暗殺未遂事件の犯人に仕立て上げます
 結果、追い詰められて申生は自ら命を絶ってしまいました

|流浪の始まり

 後継者候補・申生による暗殺未遂事件によって晋の献公は疑心暗鬼に陥ります。そしてあろうことか残った後継者候補・重耳と夷吾の元に軍勢を送り攻撃します。晋の正規軍と戦っても勝ち目はないと判断した重耳と夷吾は国外に逃亡してしまいました。
 重耳は母の故郷である白狄の支配地域へと亡命しました。この時、重耳は既に43才でした。重耳はこの地で地元の女性・季隗きかいと結婚し、後に子をもうけます。季隗の姉・叔隗しゅくかいは五賢士の趙衰と結婚しています。

 重耳たちが亡命から5年後の紀元前651年、晋の献公は即位26年目に病死します。跡継ぎは驪姫との間に生まれた奚斉でしたが、驪姫に反感を持つ大臣たちにより反乱が発生してしまいます。反乱の結果、驪姫とその妹・少姫、奚斉と少姫の子・卓子は殺害されて、晋は主君が不在の状態となってしまいました。
 驪姫を打倒した大臣たちはまず重耳に帰国を要請しました。もちろん新しい晋の君主の座に就いてもらうためです。しかし、重耳は罠ではないかと警戒し、この要請を断ってしまいます。
 仕方がないので大臣たちは第2の候補者として夷吾に帰国を呼びかけました。夷吾は秦の穆公の援助を得て無事に晋に帰国し、晋の恵公けいこうとして即位しました。
 無事即位した晋の恵公ですが、万が一重耳が帰国してきた場合自分の地位が脅かされるのではないかと不安になります。紀元前645年に発生した韓原かんげんの戦いで秦の穆公に大敗北を喫した影響もあったでしょう。
 ついに晋の恵公は実の兄である重耳を暗殺しようと刺客を送り込みます。重耳は継母、父、弟から命を狙われたということになります。

 晋の恵公からの刺客は情報提供する者がいたため事なきを得ましたが、晋に近い小国に潜伏し続けるのは非常に危険になりました。重耳は晋から遠く、なおかつ晋が迂闊に手が出せない強国・せいを目指し、白狄の地を旅立ちます。紀元前644年、亡命から12年が経過していました。
 この時重耳は妻に
「25年経って帰って来なかったら、私に構わず再婚してほしい」
妻はそれに笑って答えました。
「そんなに待っていたら、お墓に植えた木も大きくなっていることでしょう。でも私はあなたをいつまでも待っていますよ」

放浪の公子

斉の桓公

 斉に行く途中重耳一行はえいを通過しました。衛の君主は後継者レースから脱落した重耳をナメていたので一行を歓迎しませんでした。当然援助などもなく、旅の途中で食料が尽きた重耳一行は地元の農民に食べ物を乞うことになりました。衛の君主と同様に衛の農民も重耳をナメていたので、器に土を盛って差し出しました。重耳は激怒しそうになりましたが、家来の趙衰と狐偃は宥めて言います。
「土を貰うということは、この土地を得るということの吉兆です。ありがたく受け取りましょう」
 この土地は後に晋の領土となります。

 苦労しながら斉にたどり着いた重耳たちを斉の桓公は手厚くもてなします。当時斉では大宰相・管仲かんちゅうが死んだ直後で、斉の桓公は優秀な人材を必要としていたという事情があります。更に斉の桓公は公族の娘・斉姜せいきょうを重耳に嫁がせます。
 重耳の兄・申生のお母さんと同じ名前のように思えますが当然別人です。そもそも『姜』は斉の君主の氏なので、斉姜とは『斉の姜さん』程度の意味しかありません。本名は別にあったのでしょうが昔のことなので伝わっていません。驪姫だって『驪戎の姫』ですからね。

 斉で重耳は5年間何不自由ない日々を送ります。その間斉の桓公は病死し、内乱も発生しましたが重耳の身に危険が及ぶことはなかったようです。
「このまま斉に骨を埋めるのも悪くない」
そんな風に思っていた重耳でしたが、妻・斉姜や家臣たちはそうは思っていませんでした。重耳には覇者となって天下の秩序を回復させる力があると信じていました。
 斉姜と狐偃をはじめとする家臣たちは重耳を酒で酔わせ、その間に車に乗って斉を出発しました。晋帰国の協力者を探す旅の始まりです。
 酔いから冷めた重耳は驚き、この計画の首謀者だった狐偃を叱責します。狐偃を手打ちにしようとする重耳に対して狐偃はこう言います。
「私が死ぬことで重耳様の大業が成るなら本望です」
重耳は不承不承ながら狐偃たちを許し、再び放浪の旅を続けることになりました。

そう襄公じょうこう

 重耳たちは協力者探しの旅の途中、そうという国に立ち寄ります。曹の君主は非常に失礼な人物だったようで、重耳が肋骨の隙間が極端に狭くて肋骨が一枚の板に見える体質だったことに興味を持ち、なんと入浴中の重耳を覗き見したのです。無礼な扱いを受けた重耳たちはすぐに曹を後にします。
 余談ですが、昭和の大横綱・大鵬たいほうや江戸時代の力士・雷電らいでん為右衛門ためえもんも肋骨が太く一枚の板のように見えたそうです。重耳も幼少期から非常に大柄だったそうです。

 重耳たちは今度は宋の襄公の元を訪ねます。春秋の五覇のひとりにも数えられる宋の襄公ですが、この時は泓水おうすいの戦いで負傷し、病床に臥せっている時期でしたが、宋の襄公は体調が悪いにもかかわらず重耳たちを手厚くもてなします
 しかし、敗戦直後だった宋に重耳を支援する余力はありませんでした。やむなく重耳たちは放浪の旅を続けます。

 次に訪れたていでは宋とは逆に全く歓迎されなかったため、長居することはありませんでした。

成王せいおう

 重耳たちは南方の大国・に到着しました。楚の成王せいおうは領土拡大に野心的で、斉の桓公と争い、宋の襄公を泓水の戦いで破った超大物です。楚の成王は重耳を同格の諸侯しょこうとして対応しました。重耳を高く評価していたようです。
 しかし、楚の成王はなかなかしたたかな人物でもありました。ある日酒の席で楚の成王は重耳に尋ねます。
「もしあなたが晋公に即位したら、私にどんなお返しをしてくれるのでしょうか」
重耳はそれに答えます。
「もし晋と楚の間に戦争が起きた時、軍隊を3日分後退させましょう」
要するにもしも戦争になったらハンデを上げるということです。この発言を聞いた楚の将軍・子玉しぎょく
「亡命公子の分際で生意気な!我が王と対等のつもりか!」
と激怒し、重耳を殺そうとしましたが、重耳を高く評価する楚の成王は子玉を停めました。
 この時の重耳と楚の成王のやり取りは後に現実のものとなります。

しん穆公ぼくこう

 重耳が楚にいる紀元前637年、晋の恵公が亡くなりその子供が晋の懐公かいこうとして即位します。しかし、晋の懐公の即位に対してしん穆公ぼくこうが反発し、対抗馬として重耳を晋の君主にしようと画策します。このあたりの経緯は前回の秦の穆公を解説したときにお話しましたね。秦の穆公も重耳を高く評価し、自らの娘を嫁がせます。
 そして翌紀元前636年、重耳は秦の穆公の援助を受けてついに晋に帰還します。晋の人民は恵公・懐公親子が悪政を行っていたことから重耳を歓迎しました。晋の懐公は逃亡しましたが、逃亡先で殺害されました。

重耳の旅路

 重耳は晋の君主として即位します。これが晋の文公です。最初の逃亡から19年後。すでに62才になっていました。 

春秋の覇者・晋の文公ぶんこう

晋の文公・重耳

尊王の覇者

 文公は即位後、晋の国内を安定させました。また、優秀な人材であれば過去に自分の命を狙った人物であっても重用しました。弟である晋の恵公は少しでも重耳に好意的な人間は冷遇していたこととは対象的です。

 即位から2年後の紀元前635年文公は周の襄王じょうおうを助けます。前年に周では反乱が発生し当時の周王・襄王が弟・叔帯しゅくたいにより追放されていました。周の権威が低下していることがわかります。
 文公は狐偃・先軫と共に襄王を援助し、叔帯と叔帯に味方する勢力を駆逐しました。この功績によって周王室から地位と土地が与えられました
 この事で文公の名声は晋国内だけでなく中原ちゅうげんに轟くこととなり、秦の穆公・楚の成王と並ぶ時代を牽引する一人と見なされるようになります。

宋救援作戦

 斉の桓公が亡くなった後、楚は急速に勢力を拡大していきました。
 特に泓水の戦いで楚に敗れた宋は宋の襄公亡き後は楚の影響下にありました。宋としては戦いに敗れた結果であって、喜んで楚に従っていたわけではありません。宋の襄公の子供・宋の成公は楚から離反し晋と接近します。
 この動きに対して楚の成王は将軍・子玉を派遣して宋の首都・商丘しょうきゅうを包囲しました。文公は宋を救援するのため狐偃・先軫らを派遣します。
 紀元前632年、文公即位から5年後のことでした。

 途中、楚の傘下に下っていた衛と曹が晋軍の行く手を阻みます。しかし、この2国に楚の援助なしに晋軍を止める力はありません。あっという間に晋軍に降伏し、更に領土が奪われてしまいます。
 衛・曹の敗北により、楚は宋包囲を続けるよりも傘下にあった2国を救援せざるを得なくなりました。楚の成王の決断は早く宋の包囲を解除し本国に帰還する命令を出します。楚の成王は野心家で好戦的な反面、勝ち目が薄いと判断した時の行動は的確かつ迅速な人物です。しかし、将軍の子玉は徹底抗戦を主張し楚の成王の命令を無視。ついに北の大国・晋と南の大国・楚が直接激突することになりました。

城濮じょうぼくの戦い

 兵力は晋軍が戦車700乗、総兵数ではおそらく2万〜7万人と予想されます。楚の総兵力は不明ですが、中軍・右翼・左翼のうち中軍の戦車が180乗という記録があるので、単純に計算すると全体では540乗程度、兵士数では1.6万〜5.4万人程度でしょう。兵力的には晋が若干優勢ですが、晋軍はすぐに攻撃することなく3日分後退します。これは、かつて文公と楚の成王が交わした約束を守るためのものでした。
 晋軍は後退し、楚軍はその分前進しました。両軍は城濮じょうぼく・現在の山東省さんとうしょう菏沢市かたくし鄄城県けんじょうけんで対峙します。

 両軍とも部隊を3つに分けて左翼・中軍・右翼と横一列に布陣しました。
 はじめに衝突したのは晋の左翼と楚の右翼でした。楚の右翼は同盟国の兵士もいる混成部隊だったため、一気に戦況不利に陥ります。
 しかし、晋の右翼と楚の左翼の戦いは、早い段階で晋が後退を始めます。大きな土煙を巻き上げながら後退する晋軍を楚軍は追撃します。更に一時は優勢だった晋の左翼も後退を始め、楚の右翼は残存兵力をまとめてこれを追撃します。
 楚の両翼が前進を続けた結果、晋の中軍の一部が楚の両翼に攻撃を仕掛けてきました。そして、後退していた晋の両翼が反転します。楚の両翼は2方向から攻撃を受けることになります。人間は複数方向からの攻撃に対しての対応は非常に困難で、更に数万の集団が組織的に反応するとなると事前に準備・訓練をしていない限り不可能です。結果、楚の両翼は壊滅し、中軍を指揮する子玉は敗残兵をまとめて撤退するのがやっとでした。

城濮の戦い・戦闘経過

 部隊を反転させて戦うといった戦術は、小回りの効きにくい戦車戦では非常に困難です。この戦術が成功した要因は、3日分後退したことによって平野が多い地域に戦場が移ったことです。基本的に中国の地形は北に平野が多く南に湖沼が多くなります
 また、晋軍はこの戦術を計画的に実行した形跡があります。偽装退却の際に通常よりも大きな土煙が巻き上がった原因は、戦車に木の枝を取り付けていたためです。
 更に楚の将軍・子玉は一度撤退命令を無視していたことから、必ず成果を上げる必要がありました。王命を拒否した挙句一戦も交えることなく撤退したとなっては処刑は確実です。命令無視をチャラにするほどの手柄が子玉に必要だったことも楚が晋の罠に嵌った原因でしょう。そもそも子玉はかつて文公と楚の成王の3日分後退するという約束に対して激怒していたので、目の前でその約束を実行されたとあっては退くに退けなかったでしょう。他の人から見たら文公は楚の成王との約束を守っただけですが、子玉の目には最大級の挑発行為に映ったでしょう。
 敗戦後残った兵を収容し撤退を完了させた子玉の将軍としての手腕は見事と言う他ありません。凡庸な将軍では中軍も壊滅していたはずです。しかし、城濮の戦いでは冷静さを欠いていたとしか言いようがありません。

 城濮の戦いは晋の大勝利に終わりました。文公は諸侯や周王を招き、大々的に会盟を開きました覇者・文公の誕生です。楚の傘下にあった鄭も晋の傘下に加わりました。
 一方で子玉は楚に帰国後、敗戦の責任を取り自殺しました。

覇権国家・晋

 晋の文公は即位から9年目、紀元前628年に病により亡くなります。在位期間は非常に短かったのですが、中華世界に秩序を取り戻し、文明の護り手となった功績から、諡号は最上級の美諡である『文』が贈られました。
 文公の死後、即位した晋の襄公じょうこうは秦の穆公との戦いに勝利するなどして、晋は覇権国家としての地位を固めていきました。

 また、血統が親しい者同士で国家運営も行っていた時代にあって、文公は五賢士の様に血縁に囚われることなく優秀な人材を積極的に登用していきました。異民族との婚姻を積極的に行った晋という国の姿勢も、文公の人事方針に良い影響を与えたと考えられます。

 しかし、五賢士の趙衰や魏武子の子孫たちが力をつけ、やがて六卿りくけいと呼ばれる貴族の派閥を形成していきます。そして、晋を舞台に内戦を繰り広げ、最終的に紀元前367年に晋は完全に滅亡します。

 次回は数々の逸話に彩られた南方の覇者・楚の荘王そうおうのお話です。次回で一旦の区切りとなります。