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第5回【数々の伝説に彩られた覇者・楚の荘王】

南方の大国

強国への道

 長江ちょうこう中流域に存在した国です。黄河流域の諸国家とは違った文化を持った国です。
 楚の国家としての特徴はその広大な支配領域でしょう。後世「湖広ここう熟すれば天下足る」と言われるほど農業が盛んになる地域ですが、この段階では農地の開発はそれほど進んではいませんでした。しかし、広大な土地からは様々な資源が産出されました。

 特に大規模なのは湖北省こほくしょう大冶市だいやしにある銅緑山どうりょくざん古銅鉱遺跡でしょう。これは『20世紀の古代中国の発見百選』にも含まれている遺跡です。この百選には北京原人や兵馬俑の発見も含まれます。
 銅緑山は紀元前12世紀から紀元1世紀ごろまで採掘された銅鉱山で、南北1キロ東西2キロの中に内径70〜120センチの坑道が数百本張り巡らされていました。坑道の出入口には高低差を設けて気圧を変化させることで坑道内の空気を循環させて坑夫の酸素を確保。更に地下水を巻上げ機で地上に排出するためのシステムがあり効率的に作業が出来たようです。また、この鉱山は溶鉱炉も備えていたようです。

 楚は黄河流域の諸国家からは蛮族と見なされていましたが、非常に高い文明・技術と豊かな物資・経済を有していたことがわかります。

銅緑山古銅鉱遺跡・春秋時代の採掘跡

王を名乗る

 元々楚はしゅうの権威から距離をとっており、時には対立することもありました。紀元前977年には周の昭王しょうおうが楚への遠征途中に行方不明になるという事件が発生しました。渡河中に遭難したものと思われます。
  紀元前704年、当時の楚の君主だった熊徹ゆうてつが当時の周王に爵位の昇進を申し出たところ拒否されたので、勝手に王号を名乗り始めました。楚の武王ぶおうです。これ以降、楚は代々王号を名乗ることになります。
 本来であれば勝手に王を名乗るような事をすれば、周や他の諸侯から袋叩きにあうのですが、この頃は周は既に東遷後の弱体化していた為これを咎めるような力はありませんでした。

覇者たちと楚

 元来、周の権威の外にいた楚は頻繁に他国への侵略を行いました。
 特に活発だったのは紀元前671年から紀元前626年の間王位にあった楚の成王せいおうです。楚の成王はせい桓公かんこうそう襄公じょうこう、そしてしん文公ぶんこうと戦った人物です。
 楚の成王は史記しきにも徳を布き、恵みを施し、諸侯と旧交を結んだとある通り、軍事面だけでなく内政や外交にも実績を残した優秀な王様でした。しかし、乱暴者だった王子を後継者から外そうとした折に反逆に遭い殺害されてしまいました。最期の言葉は
「熊の手が食べたい……」
だったそうです。この頃には既に熊の手が料理としてあったようです。

 楚の成王を殺害した王子は即位して楚の穆王ぼくおうとなります。楚の穆王も他国への侵攻を繰り返しますが、紀元前614年即位して12年目に病没します。楚の穆王の子供が後を継ぎますが、これが春秋の五覇の一人・楚の荘王です。

楚の荘王

鳴かず飛ばず

雌伏の時

 荘王の生年は不明ですが即位した時は非常に若かったと言われています。そのため、即位直後王位を狙ったクーデターが発生しました。幸いこのクーデターは失敗しましたが、これを受けて荘王は完全に腐ってしまいました荘王は王としての職務を放棄し、日夜遊んで面白楽しく暮らしはじめます。
「意見するやつは死刑!」
というダメ人間丸出しな命令を出した上で。

 当然国政は乱れ、風紀が緩んだ結果賄賂が横行するようになりました。即位から3年目、流石に見かねた伍挙ごきょという大臣が荘王を諫言します。普通に諫言したのでは死刑にされるので伍挙は謎かけ風に話を切り出します。中国史によくある遠回しに王様や皇帝に意見するヤツです。
「三年の間、飛ぶこともなく鳴くこともない鳥がいます。なんと言う鳥でしょうか」
荘王はそれに答えます。
「その鳥は一度飛び立てば天の高みを突くだろう。その鳥は一度鳴き出せば人々を驚かすだろう。退がるがよい。わかっている」

 また、蘇従そじゅうという大臣は直接的に荘王を諌めました。荘王は蘇従に尋ねます。
「お前は意見したら死刑という命令を知らないのか?」
それに対して蘇従は
「私が死んで王の目が醒めるのであれば本望です」
と答えました。蘇従の言葉を聞いた荘王は満足ぞうにうなずきました。

覚醒する覇者

 荘王はダメ人間のふりをやめ、本格的に政治を始めます。まず3年の間、賄賂や汚職に手を染めていた悪徳官僚を粛清し、逆にその間真面目に職務を遂行していた官僚を引き立てました。もちろん伍挙と蘇従も国の重鎮として出世します。即位直後にクーデターを起こされた荘王は3年をかけて信用できる人物と、そうでない人物の見極めをしていたのでした。
 荘王は抜擢した人材たちを率いて国政改革に乗り出します。内政を整備し、法令を施行し、水利設備を建設しました。これにより楚の民衆の生活は豊かで安定したものになり、国は豊かになっていきました。

 現在「鳴かず飛ばず」というとうだつが上がらない事を指しますが、本来の意味は、雄飛する時をじっと待つ事を指します。

賢夫人と賢臣

 荘王の妻・樊姫はんきも賢婦人として有名です。
 ある夜荘王の帰りが遅い日がありました。樊姫が荘王に尋ねます。
「こんなに遅くまでお腹が空いたり、退屈だったりしないのでしょうか」
「賢者と語らっていたのだ。空腹や退屈など感じることはない」
荘王の返答に対して樊姫は更に尋ねます。
「賢者とはどなたのことでしょうか」
令尹れいいん虞丘子ぐきゅうしである」
楚では宰相の事を令尹と呼びます。虞丘子の名前を聞いた樊姫は笑い出します。荘王は不思議に思い何故笑うのか尋ねました。
「虞丘子殿は確かに賢いでしょうが、忠義者とは言えないでしょう。
 私は王に嫁いでから11年、国内外に人を派遣して美人を探して推薦してきました。今では私より賢い女性は2名、同程度の女性も7人はいます。
 しかし、虞丘子殿は令尹になって10数年経つのに高い役職に推薦するのは身内ばかりです。1人の賢者も連れてきたことはありません。賢者を知りながら推挙しないようでは忠義者とは言えないでしょう」
荘王はなるほどと思い、翌日虞丘子にこの事を伝えました。虞丘子は恥じ入り引退を申し出ると共に、孫叔敖そんしゅくごうという人物を推挙しました。

 孫叔敖の功績で最も有名なのが安徽省あんきしょう寿県じゅけんに建設した巨大貯水池・芍陂しゃくひです。芍陂は約70kmの水源からの水路、約150kmの堤防長、660万haの灌漑面積を誇り、洪水対策としての放水用水路まで備えており、農作物だけでなく大量の水産資源を楚にもたらしました。参考までに日本の島根県が約670万haですね。更に孫叔敖は荘王最大の決戦・ひつの戦いでも重要な働きをします。
 芍陂については一般社団法人建設コンサルタンツ様の協会誌を参考にさせていただきました。
【参考】https://www.jcca.or.jp/kaishi/226/226_yoneoka.pdf

現在の芍陂(安豊塘)

王権への挑戦

鼎の軽重を問う

 国力を充実させると同時に荘王は国外にも討って出ます。即位から3年目の紀元前611年、つまりダメ人間の演技をやめた年には湖北省こほくしょうにあった小国・ようを滅ぼします。
 更に即位8年目の紀元前606年には周の首都・洛邑らくゆう近郊まで兵を進めてそこに駐屯するに至ります。危機感を覚えた周は荘王に対して王孫満おうそんまんという人物を使者として派遣します。荘王は王孫満に対して尋ねます。
「周の国宝である九鼎きゅうていの重さはどれほどのものか」
九鼎とは周がいんから引き継いだ王者の証であるかなえです。日本で例えれば天皇家に伝わる三種の神器にあたるものです。この問いかけは鼎の重さそのものではなく、周王の権威を値踏みするものです。周王の重みはどれほどのものか、という極めて挑戦的な発言です。下手な返しをすれば楚軍が洛邑に侵攻してしまうかも知れません。王孫満は荘王の問に対して、
「鼎の重さは重要なことではない。大切なのは徳の有無である。九鼎が周王家にあるということは、力が落ちたとはいえ周王家に徳がある証拠である」
堂々と答えました。
 荘王はこの答えに周には未だに忠誠を誓う者が居り、もしも周を攻め滅ぼせば血みどろの戦いになることは避けられないと悟ります。衰えてもなお、周という国の命はまだ尽きてはいないと判断した荘王はおとなしく楚に帰国しました。

 公然と権威を疑う、値踏みすることを「鼎の軽重を問う」と言いますが、これは楚の荘王と王孫満のやり取りに由来します。ちなみに約300年後の紀元前307年に秦の武王ぶおうがこの九鼎を使って趣味のウエイトリフティングをして事故死したのは第1回でお話したとおりです。

ひつの戦い

 即位から17年後紀元前597年、荘王は自ら軍勢を率いて現在の河南省かなんちょうにあったていという国を攻撃しました。
 鄭は地理的に晋と楚の両方の影響を受けやすく、その時の強そうな方に付くというコウモリ外交を展開していました。結果、晋からも楚からも信用されないという事態に陥っていました。
 楚の攻撃に対して鄭は援軍の要請を晋に求めました。しかし、晋の大臣・荀林父じゅんりんぽは鄭を信用できない国として援軍を渋りました。しかし、度重なる鄭からの応援要請に対して最終的には鄭救援に向かいました。

 しかし、晋軍が到着する直前に鄭は楚に降伏してしまいました。晋軍の総大将の荀林父と将軍の士会しかいは撤退しようとします。しかし、晋の文公に仕えた五賢士・先軫せんしんの子・先縠せんきが交戦を主張します。
 楚軍でも荘王と宰相・孫叔敖は和睦を主張し、伍挙の父・伍参ごさんは晋軍内部が一枚岩ではないことを指摘し、交戦を主張します。
 お互いは河南省鄭州市ていしゅうしひつで膠着状態になってしまいました。結局両軍の間で和睦を結ぶことになり、晋から使者として、五賢士・趙衰ちょうすいの孫・趙旃ちょうせんと五賢士・魏武子ぎぶしの子・魏錡ぎきが派遣されました。
 そして趙旃と魏錡は荘王を殺害しようと、独断で楚軍に攻撃を仕掛けて失敗します。

ほこめるを

 和睦するつもりだった楚軍は趙旃と魏錡からの攻撃を受けて激怒します。和睦を主張していた荘王や孫叔敖も総攻撃の命令を下します。趙旃と魏錡は楚軍からの反撃を喰らい晋軍本隊のところに逃げ込みます。
 驚いたのは晋軍総大将の荀林父です。彼は和睦するつもりだったのですが、何故か和睦の使者が命からがら逃げてきたのですから。更にその後ろには騙し討ちを受けたと思って怒り心頭の楚軍が殺到してきたのです。楚からしてみたら趙旃と魏錡が独断で攻撃をしてきたとは知らないわけで、楚軍の攻撃は完全な奇襲になってしまいました。
 晋軍は総崩れとなり船に乗って逃亡を試みます。しかし、兵士が一度に船に殺到したため船が沈みそうになります。先に乗った兵士が後から乗ってこようとする兵士を斬り付け、船の中には「指が掬える」ほどだったと記録されています。晋軍の大半は凄惨な状態でしたが、唯一士会の部隊だけは殆ど被害を出すことなく晋本国に撤退できました。
 こうして、南北の超大国が激突した邲の戦いはその歴史的意義とは裏腹に最初から最後まで割とグダグダなまま集結しました。こんな天下分け目の戦いがあっていいのか。
 ともあれ、この敗戦により晋の覇権が揺らぎ、楚の荘王こそ天下のリーダー、つまり覇者であると見なされるようになりました。

 戦後荘王に京観けいかんの作成を提案した者がいました。京観とは戦死した敵兵の死体を積み上げて作る戦勝記念のモニュメントです。その提案対して荘王は答えました。
「『武』とは『戈』を『止』めると書く。争いを止めて平和をもたらすものである。自分の行動は武徳があるとは言い難く、また忠誠を尽くして死んだ晋兵の亡骸で京観を作ることは出来ない」
 実際『武』とは『戈』と『足』を意味しているため、この逸話は後世の創作と言われています。しかし、荘王がどのようなイメージで語られた人物かがわかります。

覇業完遂

宋包囲戦

 晋に勝利した荘王は覇業の総仕上げに取り掛かります。城濮の戦い以降晋の協力者として楚と対立していた宋攻略に取り掛かります。
 即位から19年目の紀元前595年に楚から斉に使者を派遣しました。その使者は過去に宋の人間とトラブルを起こしており、宋を通過するときに殺害されてしまいました。これに対して荘王は宋を非難し開戦の号令を下します。
 カンの良い方はお気づきでしょうが、これは荘王の仕込みです。出発前に使者にはわざわざ
「宋国内の通行はあいさつ無用である」
と言い含めているので、最初から使者を宋に殺させるつもりだったようです。かなり酷い話ですが、これにより楚は宋と戦う大義名分が出来ました。

 楚の包囲に対して宋は守りを固め粘り強く戦いました。宗主国である晋に対しても応援要請を行いました。
 晋は本来であれば援軍を出したいところでしたが楚と全面対決をするほどの戦力はなく、
「必ず援軍は出すから、今はとにかく頑張ってほしい」
そう返事をするのがやっとでした。晋からの使者は急いで宋に行こうとしますが、途中で楚軍に捕まってしまいます。
「命が惜しければ宋の人々の前で援軍は来ないと言え」
荘王からの要求に対して使者は承諾し、宋の首都・商丘しょうきゅうの城門の前に立ちました。
「晋からの援軍は必ず来る。それまでみんな頑張ってくれ」
約束を破った使者を荘王は責めますが、使者は毅然とした態度で答えます。
「私は晋への忠誠を貫く。荘王との約束はそのための偽りの約束にすぎない。殺すなら殺すがいい」
荘王は使者の覚悟に感銘を受け、そのまま釈放しました。日本の鳥居強右衛門のお話によく似たエピソードです。

 商丘城内では親同士がよその家の子供と取り替えて食うという地獄のような光景が繰り広げられました。それでも抵抗を続けましたが、楚軍が屯田を始めたことについに心が折れ、7ヶ月の包囲戦の末宋は楚に降伏しました。屯田は駐屯地に兵士が田畑を作り食料を現地で自給自足することです。結局晋からの援軍は来ませんでした。

蛮族から覇者へ

 宋を傘下に加えることにより、荘王の覇業は完成しました。未開の蛮族とされてきた楚がついに黄河を中心とした中華文明圏の頂点に立った瞬間でした。周に対する尊王の意志は薄いが、その権威は絶大であり、天下に秩序をもたらしたとして多くの文献で楚の荘王を春秋の五覇として扱われます。
 宋包囲戦から3年後、紀元前591年荘王は即位23年目に病没しました。

 荘王の子・共王きょうおうは晋との戦いに敗れ覇権を失うことになりますが、共王自身は臣民から慕われた良き王でした。また、晋を筆頭とする黄河流域の国家との攻防も小康状態を迎えます。
 しかし、荘王の孫の代になると後継者争いが発生しました。紀元前529年に即位した荘王の孫・平王へいおうは無道の君主として有名な人物です。そして平王が伍挙の子供・伍奢ごしゃと更にその息子・伍尚ごしょうを処刑することによって、春秋時代最強の復讐鬼・伍子胥ごししょが誕生し楚は滅亡寸前まで追い詰められることになります。

 全5回の中国史ぷち講座は以上となります。本当は戦国時代までお話をする予定でしたが、春秋の五覇について語るので精一杯でした。またこのような機会があれば、復讐鬼・伍子胥や世渡り上手の代名詞・范蠡はんれい、伝説の美女・西施せいしが活躍する『呉越ごえつ春秋』や戦国時代、秦の統一戦争のお話が出来たらいいなと思います。