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おいる。

おいる、は老いる。
黒猫だった子猫も、いまではグレイ猫。
キラキラ白髪が増える分、できないことも増える。
きのうまで、できていたのに!

何日か前,
バレエの真似をしていて気がついた。
フォーキン(1880‐1942)の「瀕死の白鳥」、
作品の冒頭、白鳥を踊るソロダンサーが
左右の脚を重ね、爪先立ちでコチョコチョ移動する、
あの動きができない💦
爪先で立って、コチョ、でおしまい。
踵も尻尾も床にペタン、上体もクニャ。

でも猫語で
おいる、は生いる。
昔の猫たちが使っていた「生ひ」を
ちょっとドロボー猫。

生いる —― 小さな種子が
芽吹いて時とともに大きく育っていく。
種子は、きっと、出会い。
だれかとの出会い、なにかとの出会い。

            🌱

昔、大和の国に
男の子と女の子が住んでいた。
おかっぱ髪の二人は庭に出て
よく一緒に遊んだ。
筒井戸の、男の子の背丈より高い
筒のまわりを回ったりして。

年月が経って、幼なじみの二人は再会。
かつて男の子だった貴公子は
かつて女の子だった美しい女性に
求愛の歌を詠みかける。

  筒井筒 井筒にかけし まろがたけ
     すぎにけらしな 妹見ざるまに
 女、返し、
  くらべこし ふりわけ髪も 肩すぎぬ
     君ならずして たれかあぐべき

                 『伊勢物語』二十三段

   「筒井の筒の高さを目ざしていた私の背丈は伸びて
     目標を越えてしまった、愛しいあなたと
              会わないでいるあいだに。」
 娘は応えて、
   「 あなたと長さを比べていた私の髪も伸びて
              肩を越えてしまいました。
     あなたをおいて他のどなたに、この髪を上げて
             (娶って)もらえましょう。」

            🌱

五百年余の時が流れて
幼い恋の思い出は
中世の詩人のこころに芽吹き
言の葉となって生い茂った。

世阿弥作「井筒」。

『伊勢物語』の主人公、在原業平に
ゆかりある寺を訪れた旅の僧は
古の貴公子の墓前で美しい女性と行き会う。
ろうたけた女(ひと)は、業平の妻
自らそう明かすと、姿を消した。

その夜、
前シテと同じ、恋を知る女の面(おもて=”若女”)をかけたまま
業平の標、初冠(ういこうぶり)を被り、直衣を着けた
男装の後シテが現れ、恋人から贈られた歌を
心のままに、諳んじる。

  シテ 〽筒井筒   
  地謡 〽筒井筒 井筒にかけし
  シテ 〽まろがたけ
  地謡 〽生ひにけらしな
  シテ 〽生ひにけるぞや

「井筒」
新潮日本古典集成『謡曲 上』

『伊勢物語』の「すぎにけらしな」は
「生ひにけらしな」に変わる。
「大きくなったものだなあ」

「大きくなりましたのよ、あなたも、わたしも」
「生ひにけるぞや」と受けたシテは
井戸辺に寄って、縁にかかる尾花を払い分け、
水鏡に自身の姿を映し見る。

  地謡 〽さながら見(ま)みえし
    昔男の 冠直衣(かむりのうし)は
    女とも見えず 男なりけり
    業平の面影

懐かしい地にあって、は無化され
生死の境界をも、性の別をも越えて
そこに在るのは、ただ
愛の形象。

            🌱

愛し、愛され
得意に生き、失意に生きて
終章。

  むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえれば
    ついにゆく道とはかねて聞きしかど
   きのふ今日とは思はざりしを
                  『伊勢物語』百二十五段

だれもが迎える旅立ちの日
その朝は、はじまりのとき。

     はじまりのあさの 静かな窓
     ゼロになるからだ充たされてゆけ

     海の彼方には もう探さない
     輝くものは いつもここに
     わたしのなかに 見つけられたから

                  覚 和歌子「いつも何度でも」   

                           ジブリ作品『千と千尋の神隠し』より

折々に心移ろう
気まぐれ猫たちにとって
変わらないもの
それは、たぶん老いと生い。

詩人 A. ランボー(1854-91) は
母音に色を見て歌う。
O は青、Iは赤
静謐の青と躍動の赤 —―
色彩の乱舞、いつもここに
きらめいて。

黒猫でもグレイ猫でも
猫たちは、日々老いて
日々生いる。旅立ちの
そのときまで。

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