(千字書評)石田圭子『美学から政治へ──モダニズムの詩人とファシズム』

本書は、一見ファシズムに対立すると思われるモダニズムの詩人たちが、実のところファシズムを準備していた、あるいはファシズムに心酔する結末に至った理路を、詩(文学作品)と政治における「ゲシュタルト」を核として明らかにするものである。

詩におけるゲシュタルトの根本的な問いとは、いかにしてある言葉の連なりが「一つ」の「詩作品」として認識され、成立し得るのかというものである。単なる各要素の合算ではない、各要素に還元されてしまうことのない、言葉とイメージの結合がもたらすゲシュタルトとしての詩という野望は、個人の寄せ集めに分解することのない強固で「尊い」国家の形成という問いへとスライドしていくことになる。ゲシュタルトを中断するためには、観察者という立場に立つ必要がある。文字をよくよく観察してみると文字のリアリティが喪失してしまうように(ゲシュタルト崩壊)。しかし政治に(否、民主主義に?)観察者という立場は存在しない(もしかするとそれは選挙権を持たない子どもや異邦人なのかもしれない。だからこそ詩人は、子ども(インファンス)や異邦人の言葉で詩を書く)。

「推し」文化全盛の今にあって、その現象の根幹は、推しの対象は本当に何であってもよいのだが(アイドルでも「政党」であってもよい)、何らかの対象を「推す」という行為自体の共通性のみが人々の連帯を可能にするような状況があるということだ。私たちは、推し文化の連帯を支えるために24時間動員されている。これを敷衍すれば、詩についても同様のことが言えるかもしれない。もはや共有可能なテーマがなければ、詩は何らかの対象を書くことをやめ、詩情(ポエジー)それ自体を書くことが目指される。まさしく芸術のための芸術、詩のための詩である。しかしこれは歴史的な問題というよりも、言葉に纏わる原理的な問題だろう。

たとえば西行の「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌。それが本当に尊いかどうかはどうでもよく、自分にとって何か尊いものがあるという思いなし。詩人は詩があるということに最も胸を打たれる生き物である。詩はあってもなくてもいい。ただ詩というものがこの世にありうる、存在することができるという可能性こそが詩であり、詩情なのである。詩論は常に詩の存在証明である。批評(としての制作)の役割とは、詩と詩論の癒着を断ち切ることではないだろうか。(片田甥夕日)


〈書誌情報〉
石田圭子『美学から政治へ──モダニズムの詩人とファシズム』慶應義塾大学出版会、2013年。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?