見出し画像

巨人の肩の上に立つ

「かいぶつが、あらわれた」

 といのうは新潮社からトマス・ピンチョンの全小説・新訳版が出たときのコピーであります。  
ピンチョンの小説が秘めている、まがまがしいエネルギーや、本そのものの重量感、一冊五千円程度というかなり大物なお値段。そのすべて含めて、帯に書かれたこのコピーは、目に飛び込んできた瞬間にぴたっときて、ずっと脳に残っています。

 昨日、ライブを観に行って、このコピーがすこーんと脳内を走り抜けていきました。

誰のライブかっていうと柳原陽一郎さんのです。
今までモジモジ遠慮してたのですが、すごく好きな方も たま がお好きということで、えいやっと誘ってみて一緒に観れました。勇気出して良かった。 

 柳原さんは歌いだすと、途端に異様なオーラが放たれるんですけども、「かいぶつ」の正体は柳原さんご自身ではなく、その手や口から紡がれる楽曲のほう。その音と言葉の海に身を投じていると、柳原さんはイタコのように、ただそのかいぶつの言葉を代弁してるだけなんじゃないかと思えてくる。言葉と音がむくむくと立ち上がって、ものすごく巨大なかいぶつに変容していくような、そんな恐ろしさを感じる。

『さよなら人類』はやっぱりすごかった。一番有名な曲なもんで、ひねくれものとしては、いい曲いっぱいあるのになんでこの曲だけなんかな、って思ったりもしてましたが、やっぱりすごいものはすごいんです。『さよなら人類』が内包しているものは、宇宙が始まるときに発されたことばのように、果てしなく遠く、壮大で、無重力のなか加速度を増して迫ってきます。まともに受け止めたら死んでしまうぞ、と手汗をかき、でもそのエネルギーを前に自然と涙している感じです。

そういえばそんなものにこの前も会いました。
NODA・MAPの『フェイクスピア』を観劇したときです。
野田秀樹は言葉をゴム毬のようにして遊びます。ポンポンとよく跳ねて、転がって、観ているだけで気持ちがいい。でもそこには爆弾が仕込んであって、自由に跳ねるのをたまに笑ったりして小気味よく眺めていると、何やら時計の音がしてぼかーんと爆発するんです。本当にすごい。
『フェイクスピア』はとくに言葉そのものがテーマになっていて、「フェイクの言葉」=「物語」とはなぜあるのか、「演劇」とはなぜあるのか、「芸術」とはなぜあるのかを紐解いていく作品でした。ノンフィクションの悲劇を前になぜフィクションが必要なのか。それはノンフィクションと対峙するため、ノンフィクションを残していくため、そしてやっぱり生きるためなんですよね。イタコのように死者の言葉を代弁しながら、そのノンフィクションの言葉を自身の宇宙の中めぐらして、エネルギーを増幅させ、爆発させる。爆発で自分と過去と現在が砕け散って混ざり、巨大なかいぶつになる。このかいぶつだけが未来のノンフィクションの悲劇と互角に向き合えるわけです。

こんな恐ろしいかいぶつを用意してくれて、且つこんなに強いメッセージで「生きろよ」と激励を飛ばしてくるかっこいい人たちがいるのに、なんか死ねないよなと。巨人の肩の上に立つ、と言ったのはニュートンでしたっけ。のっぴきならないことばかりですけど、死者の言葉を受け止めながら見晴らしよく頑張りましょうねと勝手に思った次第です。


もし気に入ってくださって、気が向いたら、活動の糧になりますのでよろしくお願いします。