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血筋をめぐる冒険

祖母が危ういとのことで、年末年始は母と姉と祖母の住む、山形に行きました。山形新幹線に乗っていると福島から明確に東北という気がします。福島を過ぎるともう、それ以降は雪が増えるばかりなのです。

祖母は現実と妄想の中をうろうろしていると、事前に聞いていたので、それなりの覚悟で帰省したのですが、私が来たからなのか、それとも祖母自身の生命力によるものなのか、かなりしっかりとお話ししてくれました。「覚えてる?」と聞くと「忘れないよ」と答えてくれて、やはり祖母は気高い人だなと思いました。

祖母の介護は基本的に母が担っており、その献身ぶりは凄まじく、祖母が今でもしっかり生きているのは、母のただならぬ努力の結果だと素直に尊敬しています。と同時に、たまに垣間見える母の脅迫的な言動(内容というよりも選ぶ言葉や語調)や態度を見ていると、母の祖母への愛憎の深さを恐ろしくも感じます。

姉のうちにお邪魔して、二人で話した時も、姉は「お母さんのことをすごく恨んでる」と言っていて、私もそれは自覚していたことなので、驚くこともなく受け止められました。まともに面倒を見てくれないまま、知らない女の人のもとへ行った父よりも、私はずっと育ててくれた母のほうを恨んでいるんです。でも結構、そこの言語化が難しかった。たぶん明確な事件がなく、長い月日の蓄積なのでより複雑なんでしょうね。

祖母、母、姉と一緒に過ごすと、同じ不幸の血が流れているのを強く感じます。不幸の血筋というのは、精神的に不幸な方向に向かいやすい人たちのことです。とてつもなく不幸なことが舞い降りてくる、というより、普通の人ではそうはならないような出来事も、精神的に不幸に向かっていってしまうような、そんな育ちによる呪いに見舞われている人たちなのです。家族と離れて暮らすようになってから、その呪いをもやもやーんと捉えられるようになったので、自分のためにも、よりきっちりそこを把握すべきだなと思って、最近では心理学の本を読んだりしています。なにしろ、私はちゃんと幸せになりたいし、その呪いで他人を傷つけたくないですから。そしてできることなら、母や姉の呪いも軽くしてやりたいのです。

一番最近読んだ本では親子関係を起因とする様々な「心の病」が出てきます。その一つの症例として、発達障害を持つ親に育てられた人の話が出てきました。その人は冷静に自分の中にある孤立を語ります。「孤独」ではなく「孤立」。漠然と自分をこの世界の「異邦人」のように感じていているというのです。この感覚の根源にあるのは存在価値の喪失なんだそうで。

人間の欲求はまず第一段階として「安心」があり、第二段階として「愛情」「賞賛」「お金」がある。これを子供時代にしっかりと学習できると「社会に自分が存在しているな」と認識の歯車がうまく噛み合って、他人と価値を共有しながら生きていけるんだそうです。ところが、幼いころに精神的な親がいない(ネグレクト、親の発達障害もろもろ)状態で育つと、十分に価値の構築ができず、世界と自分の価値が共有ができないまま、ただ自分が世界に「ある」としか感じられなくなってしまう。
解説まで読み切って「わいやないかーい!」と思いました。私の場合は症例ほど極端な親の不在にあったわけではないので、そこにもっと複合的な過干渉とか抑圧とかの精神欠損が散らばってるんですけども、そっちは割と自分でも認識できてたんです。こういう気持ちを押し付けられてきたから、こういう時こうなっちゃうよね~って、経験則的に。けれどもこの症例に関しては、いままで言語化できていなかったけれど、ずっと感じていたもやもやの具現化だったので「これだ!」と手をたたいてしまいました。

で、ここからが面白くて、そういう欠損をもった人は、もはやそれを覆すことはできないのですが、思考をもうひと段階さきに進めていくことができるんだそうです。

すべてのことに価値を持たない人間が、「安心」「愛情」「賞賛」「お金」を求めて生きることは難しく、それをしようとすると常に緊張しなくちゃいけなくてつぶれてしまう。だから、自分が普通ではないことを認め、それが理解されないことをまず認めること。すると外に向かって削ってきた心ではなく、内にしまってきた心の中に価値を見出すことができるようになって、「すべてが価値を持たない」を「すべてに存在する価値がある」へと変換していくことができるという話なんです。意味がある、じゃなく価値があるなところがポイント。この精神って、定年退職して家族も仕事も失い、自分の存在価値が崩壊した人の最終着地点らしいんですけど、もとから社会的な枠を持たない人間はあらゆる精神成長期を飛び越して、そこに行けちゃうらしいんです。欠損してるのに飛び級できちゃうのはだいぶ面白いことです。

書いている文章だけを読んだ人から私は、実年齢より年上に思われることが多いのですが、それは、その境地にちょっとだけ足を踏み入れられているからかもしれない。そう思えると安心と同時に嬉しさが込み上げました。

自分で自分の話をよく聞くこと、他人の話をとにかくよく聞くこと。そういうのを繰り返して自分が見つかっていく旅は大変面白いです。私が自分を殺したかった時、それは同義として母を殺して楽にしてあげたかったんだと思います。そして母も祖母に対してこれに似た気持ちを抱いているんだと気づくと、なんとなく、視界が晴れ晴れとしています。海外なんか行かなくても、内なる宇宙旅行は止まらず、感動の再会や新しい出会いがあるんですね。もう少し深いところまで行けたら、いろいろな自分の呪いや他人の呪いに「やあ君はどこから来たんだ」と笑顔で握手できるようになるかもしれない。そう思ったら、今後生きることが愉快で仕方ないです。



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