見出し画像

混沌から抽出

見た目が邪魔って良く思う。服とかお化粧とか香水とか、見た目を彩る行為自体はとても好きなのに、それが他者の目にさらされ、評価されるのは、けがらわしいと感じる。たまに見た目を綺麗って言ってくれる人がいて、それはとっても嬉しいし、ありがたいことだし、コミュニケーションだと思うけれど、同時にそれっておしゃれなインテリアと変わんないじゃんと天邪鬼も出てくる。初対面のひとに品定めみたいにみられるのも苦手。性別とかも邪魔だなと思っていて、一人でいる時、私は私でしかないのに、他者が介入すると急激に「女」として見られてたりして、それをひどく恐ろしく感じる。女だから渡されるポケットティッシュ、女だから声をかけてくるたくさんの人、ほっといてほしい。男も同じかもしれないけど。だから初対面のときに、ものすごくフラットに誰にでも警戒心を見せてくる人が好きだし、軽薄なまでに全員へ好意を向けたり、気をつかったりする人が好きだ。

最近は「結局、科学とは何か」、という酒飲み話を昼から酒も飲まず大学の恩師と話し続けている。恩師は今年で退職するので、自分のやってきたことを客観的に振り返っているのだと思う。あーだこーだと議論を重ねるうちにたどり着いた結論は「混沌の中から自分が感じ取った美しさを、言語をつかって抽出することが科学だ」というもの。
自然、生物というやつは常に混沌としている。あらゆる外的要因、内的要因、そしてそこに至るまでの歴史などが複雑に関わり合って、現在の状態として存在しているし、なおかつそれは変化を続けているからだ。そこから自分が見えた美しさを論理というかたちで抽出し、他人に分かる形でアウトプットすること、それが科学の本質的な部分だと思う。すると、人間が行う「表現」というもののすべてがそうやってできているのだ思えた。混沌から美しさを抽出し可視化すること。人はきっとこれをせずにはいられない動物なんだ。

加えて、よくするのは自然史(つまり自然の歴史)をやる人間は3次元を生きながら、4次元を観なければならないという話。今の形を観たとき、その形そのものをとらえるだけでなく、そこに至るまでの過程まで見通すということ。つまり現在の形はXYZの3軸によって見えている3次元の構造物だが、そこに常に時間軸を加えることで進化が見えるという話である。

京都で知り合ったとても大切な友人に、大阪まで会いに行った。彼女は私が京都を離れるのと同じタイミングで岩手に引っ越してしまったので、あまり気軽に会えないし、やり取りをこまめにしているわけではない。けれども、友人もまた文章を書く人なので、空間に放たれた彼女の言葉を見かけると、とても好きだなとしみじみ思う。こんなにお互い言葉を大切にしているし、久しぶりに会うのに、本当に取り留めもない話で数時間が溶けてしまう。きっと彼女の4次元的要素が、私にとってとても心地よいのだと思う。

私の見た目も、私から発される言葉もやはり「私」という混沌から抽出された一要素といえるかもしれない。混沌は無秩序な宇宙。人は好き勝手に、他者から、自分から、何者にも汚されない宇宙の中から、好きな要素を抽出している。それによって見える世界は、どうしようもなく自己中心的な世界だけれど、残念ながらそこでしか生きることはできない。ならばせめて、私は4次元的外見を観ながら人のことを好きになっていきたいな、と思う。


もし気に入ってくださって、気が向いたら、活動の糧になりますのでよろしくお願いします。