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「お前のコミュ力は0」と言われて決意したこと

「お前のコミュ力は0」

自分の言葉の拙さ、伝える力の拙さはそれまでにも嫌と言うほど感じてはいたけれど、明確に言われたのは大学生の就職活動のときだった。


「売り手市場」などと言われ、簡単に内定なんて得られるみたいな風潮がなんとなくあった中で、僕はかなり苦労した部類に入るとは思う。

周囲が活動を終えていく中で、ただの1つも内定を得ることができていなかった。

最終的には運よくギリギリ内定を得ることができたものの、売り手市場の招待は、「内定を得られる人間がいくつもの内定を得る」だけであって、自分のようなコミュ力のない人間はそんな言葉に騙されてはいけないんだ。

ただ、思い返せばここにはかなりの罠がある。


なぜ、僕は「自分にコミュ力がない」という言葉を真に受けて、「ああ、自分はコミュ力がないから苦労するんだ」と思いこんでしまったのか。

果たして、自分が思った通りに苦労した。

自分の伝えたいことは伝わらない。むしろ、伝えたいことが何なのかすらわからなくなったこともあった。

とにかく頑張るから採用してくれ

そんな甘えた気持ちになったことも1度や2度ではない。

けれども、じゃあ僕は本当に「コミュ力が0」などと侮られるほど、コミュ力は0だったのか。

でも、事実として最終的に採用してくれた企業は2つあって、(どちらも同じ業界の因縁のライバル同士だったのなんの偶然か)彼らは、僕の中の何かを評価してくれたのだろう。

たしかに、どちらの採用プロセスでも、僕自身は他のときに比べれば自分を出すことができたと思っていた。


ここでこの言葉を疑わないといけない。

「お前のコミュ力は0」

この言葉は、言ってしまえば「ウソ」ということになる。

0だったら、そもそもお前とも話しなんてできてないだろう、とその時は冷静に考えることができなかったが、少なくとも真に受ける必要はなかったはずだ。

思い返してみれば、言葉の力、影響力を体感した1つの出来事だったと思う。

しかもこの言葉は、ずいぶん長いこと、ぼくを呪ってきた言葉でもある。

コーチングを最初に学んだのも、自分のとにかく口下手なところを矯正したかったからというのも大きい。

そういう意味では、コーチングに出会わせてくれた言葉でもあったが、どちらかと言えば、9割苦しんだので呪いと表現したほうが適切。

でも、やっぱりこの言葉には嘘があったし、それによって何かを諦める必要も、まして自分を呪う必要は全くなかったはずだ。

コミュ力がゼロなら、僕はコーチなんて失格だろう。

だけど、僕をコーチにと選んでくれたクライアントがいて、応援してくれる人が多くいる。

この事実があるだけで、コミュ力が0ということはないはずだ。

課題、伸びしろはあったとしても。


だけど、そうした自分を盛り立ててくれるはずの声のほうには、なぜか意識が向かず、呪う言葉のほうが強く作用してしまうことってあるでしょう。

そう考えると、その呪いをどうするか?というよりも、自分がかける言葉が、呪いになりうることに怖さを感じる。

誹謗中傷がよくない理由の一つはここにあると思う。

人の尊厳、真の実力を容易に奪いうるからだ。

誹謗中傷でなかったとしても、僕らコーチが「フィードバック」と称して伸びしろを伝えるときだってそう。

タイミングを間違えば、それは呪いになりうる。

僕たちは、ここに恐怖心をもっているべきだ。

大事なことだからもう一度言おう。

僕らは、言葉を伝えることに恐怖心を持っているくらいでちょうどいいのだ。

もちろん、だからって伝えないのは違う。

だけども、本当に伝えていいのか。

正確に言いたいことが伝わるのか。

下手をしたら呪いになる。

だけど、支えにもなりえる。

だから伝える。


できうるならば、人に力を持ってもらえるような言葉を使える自分でありたいと思う。


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