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詩:内面のレポンス

たとえ発話することがなくても、
人それぞれ内面では何かを考えたり感じ続けているとして、
その内面が外とときどき呼応するとき、
人は不思議な感覚を覚える。

例えば、
その人のことを思い出したらその人が目の前に現れたとか、
連絡が来たとか、その人が好きな曲が流れ始めたとか。
こういうことはかなりいろんな人が経験している
"共時性を感じる出来事"じゃないだろうか。

もし自分が内側で考えている悩みが、
いつのまにか外に掬われていて、
救いの手が差し伸べられていたとしたら。

私たちの内側で生じる思考や感情は
一つ光っては消え、
また光っては消えていく。
もちろん思考や感情は外側から見えることはないかもしれない。
しかし内側に存在しているその思考や感情は
ときどき小さな小さな灯台のように、
あるいは、
暗闇で飛ぶ蛍のように
薄っすらと光を放つ。
そして
誰かがあるいは何者かが
その小さな灯火を発見し、
こっそりと
そこに目を送ったり、
手を振ったり、
声で応答したりするかもしれない。

たしかにこの世界には
心の内側でぽつりぽつりと明滅するものたちに
気づく人たちがいる。
その人たちと自分の内側が不思議なときに、
ふとした瞬間に繋がる。

おそらくそのような体験は、
人に大きな流れ、
大いなる存在を、
自覚させるかもしれない。
けれど
このような体験は外側から見れば
人間の経験する
いろいろな事象を線で繋いで
意味づけしたものでしかないかもしれない。

とは言ってもこの私、
あるいはあなたが
内側で不思議な一致として体験することは、
ただ無作為に立ち現れた事象を
意図的に線で繋いで
ストーリーラインとして記述することだけでは
説明ができない必然性がある。

共時性とは
内側と外側が不思議な瞬間に
呼応して連鎖するという、
“内的感覚”なのだ。

つまりは
私たちが自分の外側の事物を
目で見て耳で聞くようにして、
内的な感覚器官によって、
知覚されるものなのだ。
もしそうならば
共時性は
“見えるように”なり、
“聞こえるように”なる。

外側の事象に順応し適応するだけではなく、
自分の内側に感覚器官を備えているのは
人間の大きな特徴だ。
動物にはないもの、
人間だけが内的感覚を備えうる生き物なのだ。
だから、
その感覚を備えた人間は、
きっと
明滅する思考や感情に
気づくことができるだろう。

そのときはじめて
偶然性が必然性として目の前に現れる。
そして多分それは、
自分にしかわからない
必然性として。
物事を外側から見るだけでは
見えなかった世界が内側に広がっている。

そのことに気づいた人は、
人の内側に明滅する
微かな光が見えるようになる。
それは
外側を隈なく観察し、
理解する科学者の目と同じように、
内面を観察し理解すること。
共時性が、
不思議ではなく
自然なものとして
受け入れられるようになるとき、
そのような感覚が
すでに自分の手元にある。

この感覚こそが、
人の内側に明滅する光を感知する
感覚器官となる。
そのような存在であることは、
外側からはあまり観察できない。

けれども、
その人は内面世界を知っている人だ。

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