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2022年10月10日に発行される本について

告知!どうも、神山です。

劇ァ卒論集が出るよ

劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト論文集こと、舞台創造科3年B組卒業論文集が10月10日に発行されます。ぼくも8000字程度の論文(とういうより批評)『舞台創造科における刹那性と永遠性について―我々は何者なのか―』を収録いただいています。

https://saboteng23.wixsite.com/sotsurongodo

同人誌として1部5,000円、参加者120名、500ページの本を同人誌として作れるのか…という感動もあると思いますので、アニメ版ないし劇場版スタァライトの副読本としてお求めいただけると大変ありがたいです。

何を書いたのか

ぼくの書いた『舞台創造科における刹那性と永遠性について―我々は何者なのか―』は3部に分けられています。枝葉含めて色々と言及しておりますが、「時間」をキー概念とすると、各部は次のように分けられます。
①アニメ版・劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトを取り巻くループ構造について
②一般的な学園モノにある二つの時間の流れについて
③作品の時間と、我々”舞台創造科”の責任について
我々自身が作品やキャラクターにとってどういった存在なのかを考えた論考です。コンテンツと同時に消費者についても思考することで、ムーブメントやプロジェクト全体について述べられるのではないか、という理屈に基づいています。
自分の他の論考などもそうですが、基本的に意匠の考察や、キャラクター心理の読解、作品構造分析よりも、そういった作品・作家・読者という関係性から、読者=自分に何がフィードバックされたり、実装されたりするのかを考える方が(手癖でもありますが)慣れているのもあります。書籍全体としては解題や考察などが多いかもしれませんので、毛色が違うかもしれませんが、自由の翼で誰より高くという意志で書きました。

文章としては

を出発点とし、

『六番目の小夜子』 を演劇・学園モノという視点から挟み込みつつ、シラスチャンネル「松下哲也のアート講釈日本地」のスタァライト回 https://shirasu.io/t/nipponchi/c/nipponchi/p/20211126192353 を見て書こうと思った論考

の一応の完全版として提出する予定でした。が、8,000字という字数制限から、『六番目の小夜子』章が抄録になっていたりします。ので、ある程度の期間が経ったら、フルサイズ収録などをしたverをどこかで公開したいと思います。

掲載論文はいまのところアニメ版少女☆歌劇レヴュースタァライト、劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトと『六番目の小夜子』の話だけですが、(Re:)の展望として舞台 少女☆歌劇レヴュースタァライトや、『HiGH&LOW』や『東京卍リベンジャーズ』についても言及したいという欲望があります。青春、ループ、役者とのリンク、魂の衝突、そして卒業。幾多の作品で繰り返されているモチーフではありますが、いま、ここで扱える作品を用いて語りたい、語り継ぎたいと思っています。

二層展開式のうち一層が終わった、ではもう一層は?

書き終わった後、先述したシラス松下チャンネルのスタァライト回に出演した中村さんによるスタァライト論が掲載された本が出ていましたので、こちらも要チェックです。

卒論用メモ

オマケとして今回の卒論用メモを置いておきます。これがどういう形で掲載されているのか、やりたいことは達成されているのか、是非卒論集を確認いただければ。

劇ァはどんな話だったか→アニメ本編の解決された問題系(2次元の時間)の先にある問題系(3次元の時間)を超えて、次の問題系へ飛び込む(?=四次元の時間?)。飛び込むためと我々の観測から離れることになる=卒業であり舞台少女としての(劇中とは異なる前向きな)死。
アニメ~劇ァ、スタァライトプロジェクトにおける観客の問題について考える。
キリン:資本として延々とくべられる燃料
トマト:消費される刹那的な燃料
舞台創造科:ともに卒業するファンコミュニティ
『我々』:卒業しない?語り継ぐ?
同様の時間構造をもつ作品の例として六番目の小夜子を挙げる。ここで、サヨコ伝説=スタァライト、(役としての)サヨコ=ばなな、黒川=キリンである、という論を立てる。ここにおける何度も学園祭でサヨコが演じられるということやサヨコ伝説に挑む秋の存在や、サヨコ伝説を外側で形成する黒川の存在にスタァライトを重ねる(暴論1)。そして、青春物語の主体となった学生たちは卒業する(4次元のプレイヤー側の視点)、我々=残された者=?に対して、4次元=ホラーの領域について触れ『校舎』と等価ではないか、と提示する(暴論2)?
残された者は批評家。批評することで観客を増やし、更に批評家を増やす。批評することは単に作品を見続けること、関連コンテンツを消費し続けること、とは異なり、それぞれの行為の中で、新たな発見、異なる見方を見つけることである。

ではでは。


2022.9.14追記

劇場版スタァライト観覧時に『六番目の小夜子』とのつながりを感じた方の日記がありましたのでシェアします。

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