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黒い影(#シロクマ文芸部)

(本作は3,125文字、読了におよそ5〜8分ほどいただきます)

 逃げる夢——いや、ひたすら逃げ続ける夢を見るようになったのは、いつからなのだろう? 多分、自分では分かっている。でも、そこに因果関係を認めたくないだけだ。
 黒い何かに追われている。影のようでもあり、煙のようでもある何か。単なる気配だけなのか、不吉な陽炎なのか、幻覚なのか、本当に夢なのか……いや、もう夢の中だけではない。いつも、黒い何かが突然現れ、追いかけてくる。逃げても逃げても、追いかけてくる。



 何の取り柄もなく、生き甲斐も目標もなく、ただ素直にニコニコと笑っていられるだけが唯一の長所だった私は、親の敷いたレールの上を何の疑問も持たずに歩んでいた。ママの言うことが全てだったし、それを支えるパパには感謝しないといけなかった。
 習い事も学業も、ママが決めた通りにこなした。上手くいくと褒めてもらえた。それが当たり前だったし、ママの言い付けを守っていれば期待通りの結果を残せた。パパも、ニコニコと成果を称え、喜んでくれた。
 それなのに、私は中学受験に失敗した。

 ママは言った。「貴女にはがっかりしたわ。失敗作だったのね」と。
 ごめんなさい、ごめんなさい……ひたすら謝った。
「お前は、何の取り柄もない子だな。幾ら投資してきたと思ってるんだ? こんな所で躓くとはな」とパパが言った。
 ごめんなさい……謝るしか出来なかった。

 私は、両親を失望させてしまった。何の取り柄もない人間なのだと知った。私なんて失敗作……人間の屑だ。出来損ないの不良品。自分で自分を嫌悪するようになった。
 そして、初めて夢の中にヤツが現れた。

 家族から、会話が消えた。ママは、もう何も言わなくなった。私は、地元の公立中学校に進学したが、学校には不良品の居場所はなかった。誰とも口を利かなくなった。指示されないと、立ち居振舞いが分からなかった。
 ヤツは夢の中だけでなく、現実にも出てくるようになった。登校中も授業中も、時々背後に気配を感じるのだ。そっと振り向くと、黒い影が見えた。足がすくみ、目を閉じて、耳を塞いだ。来ないで! と心で叫ぶが、声が出ない。ヤツが消えるまで、やり過ごすしかない。
 やがて、外出を怯えるようになった。家は牢獄だ。でも、いつしか私は部屋に閉じこもり、学校にも行かなくなった。



 夢の中で、私は駅にいた。見覚えのない、小さな駅。プラットホームには、私しかいない。アナウンスが流れる。急行が通過するとのこと。私は飛び込もうとしたのに、踏ん切りが付かず、怖くなって足がすくんでしまう。目の前を急行列車が通過する。
 行ってしまった……また死ねなかった……。
 向かい側のホームに、黒い影を見た。空中を浮遊するように、こちらへ近付いてくる。イヤだ! 来ないで! そう叫ぼうとするが、声が出ない。私は、必死に駆け出した。振り向かなくても、追われているのが分かった。得体の知れない黒い影。姿形は分からないが、本能的に恐怖を感じた。さっきまで死のうとしていたのが嘘のように、今度は死を恐れ、逃げているのだ。
 薄暗い路地裏を駆け抜け、大通りに出たが、人が溢れかえっているのに、誰も私なんかに関心がない。こんな価値のない人間なんて、誰も助けない。息が上がっているが、必死に逃げる。車を縫うように車道を横切り、廃墟のようなビルに飛び込んだ。しかし、ヤツはまだ追ってくる。
 私は、最後の力を振り絞り階段を駆け上がる。足が重たく、心臓が張り裂けそうだ。それでも止まってはいけない。死に物狂いで登り続ける。そして、屋上に辿り着く。ようやくヤツから逃れられたのか、背後に気配を感じない。
 しかし、どうやらヤツは先回りしていたようだ。目の前にいたのだ。人気のない屋上で、黒い影と向き合う。ヤツは、ジワリジワリとにじり寄ってくる。後退りする私。絶望的だ。もう、ここから飛び降りるしかない。飛び降りた方がずっと楽なのだろう。駅では失敗したが、今度こそやり遂げてみる。
 そう、ヤツは私に死への勧誘にきたのだろう。

 目が覚めると、嫌な汗をかいていた。何度も繰り返し見た夢だ。ただ、見る度にヤツはより黒く、大きくなっている。妙にリアルな夢だけど、目が覚めて良かったことなんて何もない。現実には、居場所がないのだ。
 ドアの外で、母親がヒステリックに喚いている。起きなさい、学校に行きなさい、部屋から出なさい、ご飯ぐらい食べなさい、勉強しなさい、服を着替えなさい、何か飲みなさい、顔を見せて、お風呂に入って、お願い、部屋から出てきて……命令が懇願に、怒声が涙声に変わった。ヒステリーだけは変わらない。
「私なんて、出来損ないの不良品でしょ?」
 小さな声で呟く。ドアの向こうには届かない。私の声なんて、誰にも届かない。数十分ぐらい経って、ようやく静かになった。長いようで、たったの数十分。母にとっての私の価値、時給換算すると数百円分の説得だ。
 やはり、私には価値なんてない。



 ある日のこと、コッソリ家を抜け出した。法事だかなんだかで、両親のいない日。数週間振りにシャワーを浴びて、伸び放題のまま放置している髪の毛を束ねてみた。ファッションなんてどうでもいい。持ってるだけの現金をかき集め、適当に選んだ服を着て、ほぼ手ぶらで飛び出した。スマホも携帯も持たされていない。
 特に目的はない。ただ、外を歩きたかっただけだ。死に場所を探したいのかもしれない。幸か不幸か、今日は今のところヤツは出てこない。今なら、ついて行ってあげるのに……。
 行く宛もないのに、早足で歩いた。気付いたら、大きな公園にいた。ベンチに座りペットボトルのお茶を飲んだ。人気のない公園。すごく暑い日だった。今は夏だったんだと知った。
 ボーッと座っている私に、沢山の蚊が襲いかかってきた。私なんかの血を吸って大丈夫なの? と思った。同時に、少しは私にも価値があるじゃん、と自嘲気味に笑った。
 そう、久しぶりに笑った。

 私は、いつから笑わなくなったのだろう?
 少し前までは、ニコニコしておくだけで全てが解決したけど、本心で笑ったことなんてない。幼い時期まで遡らないと、笑った記憶がない。
 そう言えば、怒ったこともない。疑問に思ったこともない。自分で決めたこともない。考えたこともない。判断もしない。従うだけ。感情を持たない。受け入れるだけ。理由も目的も、何も知らなくても良かったし、親の指示を熟すだけでよかった。
 私の意志じゃなく親の意志で生きてきた。私の感情じゃなく親の感情を優先に。判断も拒絶も受容も疑問も決断も、全て私自身にはさせてもらえなかった。
 でも、違う。私の人生は私が決めるべき。生きるも死ぬも、私が決めればいい。受験なんかしたくなかった。拒否すればよかったのに、出来なかった。してはいけないと思っていた。
 全部、間違っていたのだ。怒ってもいいし、拒絶してもいいのだ。疑問を持ってもいいし、自分の意志を示してもいいのだ。

 今からでも間に合うのだろうか?
 明日から、学校に行ってみようかな?
 そのうち、友達も出来るのかな?

 その時、背後にいつもの気配を感じた。またヤツが「死への勧誘」に来たらしい。でも、まだ死にたくない。私は立ち上がり、振り返ってヤツに言った。
「しつこい! 付きまとわないで! どっか行って! お前なんか怖くない。お前に誘われなくても、死にたくなったら自分で死ぬ。もう、二度と出てこないで!」
 私は、ヤツの方へ歩き出した。もう、怖がることはない。そして、ヤツの中に入ろうとした時、すーっと影は消えていった。

 なんだ、大したことないじゃん……妙に可笑しくなって、笑いが込み上げてきた。
 涙と笑いが止まらない。


(了)


#シロクマ文芸部  
#逃げる夢

ショートショートで参加させていただきます。
先週末、実はインフルに罹りまして、その皺寄せでこの数日はバタバタしてまして、皆様の投稿も読んでいない記事が溜まっております。

なのに、ショートショートなんて書いてしまいました。
殴り書きなので、粗い出来ですけど、間に合わないのでそのままアップします。
そのうちコッソリと少しずつ手直ししていきます。