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【La Pianista】⑧

第8章 狂想曲~caprice~

「彩音、今日から夜はこの部屋で練習するのよ。いい?」
 松永恭子は、ようやく工事を終えたばかりの自宅の一室に彩音を連れて入った。八畳程度のほぼ正方形の洋室に、奥行き188cmのグランドピアノが設置されている。

【Steinway&Sons,typeA】

 このクラスのピアノでは、世界最高と評されている名器だ。空調と照明もピアノに合わせて取付け、楽譜棚と簡易的なオーディオセットも準備した。恭子は満足気に室内を見渡した。その瞬間、数週間程前の恐ろしい出来事が脳裏をよぎった。



 その日、加納のレッスンから戻った彩音は、いつになく落ち込んでいるように見えた。俯向きがちに目を伏せ、今にも泣き出しそうにさえ映る。ポジティブで勝ち気で自信家の彩音には、非常に珍しいことだ。どうしたの? と問い掛けるや否や、堰き止められていたダムが決壊したかの如く、彩音は激しく泣き崩れたのだ。
「あ、いけない!」と思う間も無く、彩音は悪霊に取り憑かれたかのように、恐ろしい形相で手当たり次第に物を投げ付け始めた。久し振りに始まってしまったことに恭子は気付き、必死に彩音を抑えようとしたが手遅れだった。学年の割に大柄とは言え、所詮は五年生だ。まだまだ発育途上の肉体の、何処にそんなパワーが秘められていたのか、彩音は恭子を投げ飛ばすかのように振り解き、喚き散らしながら駆け出した。

 ここ数年こそ治まっていたが、幼い頃の彩音は、時々激しい癇癪を起こすことがあった。何事も器用にこなし、要領を掴むのも早く、何をしても常に一番だったからこそ、一番になることが当たり前だと思っていたのだ。
 その反動からか、負けることを極度に嫌い、上手くいかないと荒れて泣き叫んだ。もし、そこに勝ち目がないことを悟ると、癇癪はより攻撃的になった。理性を失い、衝動的な破壊行為や自傷行為を繰り返し、収まりが付かなくなるのだ。
 成長と共に自制が効くようになったと思っていたが、どうやら治りきってはいなかったのだろう。数年振りに再発したのだ。しかも、過去に例がないほどの激しさをもって——。
 自分の部屋に駆け込んだ彩音は、ピアノへ激情をぶつけ始めた。先ほどとは一転し、今度は半狂乱な泣き笑いを浮かべながら、ピアノに物を投げ付け、椅子で殴り、外装をボロボロに傷付けた。
 そして、今度はわざわざ大屋根や鍵盤蓋を開けて襲い掛かり、直ぐに譜面台が破壊された。それでも、彩音はひたすらピアノへの攻撃を続けた。涎を垂らしながら動物のような呻き声を洩らし、焦点の合わない目付きで狂人のような表情を浮かべ、箍が外れたように笑っていた。部屋の壁が凹み、照明が割れ、彩音自身、何処からか出血している。

 恭子は、娘が演じる狂乱の舞台を、絶望と恐怖の入り混じった目で茫然と眺めていた。早く止めないと、と思う反面、身体が硬直して手も足も出せないでいる。適切な言葉(そんなものがあるとすればだが)も出て来ない。落ち着いて、落ち着くのよ……と、まるで何かの呪文のように、恭子は必死に自分に言い聞かせた。
 こういう時、夫の克哉は、いつも上手く彩音を鎮めていた。しかし、よりによって昨夜から出張に出ている。しかも、前回の発症から三、四年は経っており、彩音の体格もパワーも、癇癪の激しさも、比較にならないほど強く大きくなっている。だからと言って、放っておくわけにはいかない。
 私が何とかしなければ……思い出すのよ……確か、克哉も、この状態の彩音には無理に抑えようとはせず、気の済むまでやりたいようにやらせていた。そして、その後、正気に戻ったら……
 その時、ギャーンという激しく巨大な不協和音が鳴り響いた。彩音が、背付き椅子を鍵盤に思い切り振り下ろしたのだ。その衝突音とランダムに鳴らされたピアノの音が合成され、割れた黒鍵が恭子目掛けて飛んできた。黒くて固い飛沫物の接近が、恭子にはスローモーションに見えた。虫が飛んでくる感じだ。そして、思い出した。

 そうよ、確か虫だわ!
 黒い虫よヽヽヽヽ
 全ては黒い虫の仕業なのよヽヽヽヽヽヽヽヽヽ



「すごい! これ、スタインウェイでしょ! お母さん、ありがとう!」
「ここはね、防音室だから何時でも弾いていいのよ。それと、島崎さんには……」
「うん、分かってるわ、楓にはこの部屋のこと内緒なんでしょ? 大丈夫、誰にも絶対に喋らないから!」



 彩音と楓は、加納章浩の指導の下で仲良く切磋琢磨しながら練習に励み、全国規模のコンクールでもトップを競うライバルに育っていた。そして、五年生の夏になると、本格的なフィンガートレーニングも始まった。
 元々、加納の専門は、人体力学と物理学を駆使した科学的な奏法と運指の指導だ。彩音と楓も、四歳で加納の門下に入った時から、手や指の形は厳しく指導されてきた。肩や肘、手首などを上手く脱力し、上半身の力と体重を指先に効率良く伝える姿勢を叩き込まれてきた。そして、その指導はステップアップし、いよいよ指の力そのものを鍛える訓練が始まったのだ。

 実際にフィンガートレーニングが始まると、二人の潜在的な才能の差が、残酷なほどに露出したのだった。
 加納の運指の訓練は、独自に編み出した特殊なやり方だ。指と指の間に、シリコンのワックスを塗った特注の小さなビー玉を挟み、掌にはピンポン玉より一回り大きなゴム製のボールを当てがい、指の靭帯だけを上手く使って鍵盤を叩かせてみる。しかし、その為には、最低限必要な筋肉しか使わず、それ以外は上手く脱力しないといけない。それが出来ていないと、指の付け根が痛くなったり、或いは思うように指が動かなくなるのだ。
 先ずは、腕の重みを肩甲骨と背筋だけで支えることから始めてみる。これだけでも、思いの外難しい。その状態で、手首から上腕部、そして肩までを脱力し、手の形をキープ出来ないと、ボールが鍵盤を押さえて音を鳴らしてしまう。とは言え、指先まで完全に脱力してしまうと、今度はビー玉が滑り落ちてしまう。
 つまり、加納の求める理想の形をキープし、脱力と張鎰の適切なバランスが取れた状態でのみ、指の靭帯だけで鍵盤を叩くことが出来る……それこそが、加納が長い年月を掛けて研究してきた、フィンガリング理論の着地点だ。この感覚を身に付けると、全身の力を指先一点に集約出来るようになる。すると、演奏中のエネルギーのロスが無くなる分、ダイナミクスレンジが拡がり、微妙な変化を容易に表現出来るようになるのだ。

 彩音は、加納の指示通り、まずは右手の2と3の指(人差し指と中指)の間にビー玉を挟み、この二本の指だけで弾いてみた。しかし、弾こうとすると、指より先にボールが音を鳴らしてしまう。脱力は出来ても、腕の重みを背中の筋肉で保持出来ていないのだ。
 肩甲骨を意識し、何とか腕を支えようとすると、明らかに肘や手首が強張っている。自分の身体なのに、こんなにコントロールが効かないなんて……彩音はショックだった。
 それでも、何度も繰り返すうちにどうにか手首より上が固定出来るようになり、ボールが鍵盤を押すことはなくなった。しかし、今度は指が自分の身体の一部とは思えない程に硬直して、もどかしいぐらいに全く動かない。おそらく、まだ肩と腕が完全に脱力出来ていないのだ。腕全体が少し突っ張っている感じがする。何とか力を抜こうすると、ビー玉が落下した。指の付け根は、ビー玉を押さえつけた痕で真っ赤になっており、ジワジワと痛んだ。
 半泣きになりながら何度もトライしたが、結局その日は一度も上手くいかず、今まで自分がどのようにピアノを弾いていたのかも分からなくなってきた。学業もスポーツも音楽も、勘の良さと吸収率の高さから、何でも教わると直ぐに身に付けることが出来た彩音にとって、これは生涯初めて躓いた出来事と言えるだろう。
 しかし、これは非常に困難な訓練である上、加納の話では、プロのピアニストでさえ出来ていない人の方が多いとのことだ。しかも、日常生活では必要のない動かし方、いや、ピアノを弾く為だけと言ってもいい動きなので、初めて取組んでみたところで、上手く出来る方が異常と言えよう。なので、それだけなら、彩音もそこまで落ち込まなかったに違いない。

 彩音は、自分のレッスンが終わってもその日は直ぐには帰らず、楓のレッスンを見学することにした。あれだけトライしても出来なかった訓練……きっと楓にも出来ないだろうし、苦しむ楓を見たかったのだ。
 と言うのも、彩音は二年ほど前から、楓の実力に少し怯えていたのだ。確かに、レッスンの進捗具合やコンクールでの成績は、常に彩音の方が優れていた。それなのに、何故か「勝っている」という意識は芽生えない。むしろ、認めたくはないのだが、楓の非凡な才能に薄々気付き始め少し妬んでいたのだ。
 なぜなら、楓は、ピアノを心底楽しんでいるだけで、頑張ってる感じが全くないのだ。その一方で、彩音は必死だった。毎日、死に物狂いで練習していたのだ。楓に負けたくなかったし、常にトップでいたかったのだ。実際に、その地位はずっとキープしていたが、どれだけ必死に頑張っても、楓を引き離すことは出来ないでいた。それどころか、いつも楽々と直ぐ後ろに付いてくるのだ。



「でも、楓も練習をやめないのだから、やっぱり私は勝てないかも……」
「それもね、ちょっとお母さんに考えがあってね、島崎さんは八時までしか練習出来なくなるわよ」
「本当に?」
「えぇ、本当よ。その代わり、彩音もあっちの部屋では八時までにしてね。八時以降は、コッソリここで弾けばいいのよ。それとね、このことは絶対に島崎さんに言っちゃダメだからね」



 しかし、彩音の願望や期待に反し、楓が加納からフィンガートレーニングの説明を受け、実際にやってみるところを見ると、彩音は絶望的なショックを受けたのだった。「あぁ、難しいー!」と言いながら、楓はしっかり手首より上を固定し、指の力だけで鍵盤を叩いたのだ。更に、メトロノームに合わせ、綺麗にトリルで弾くことも出来た。
 それだけではなかった。楓のセンスに加納も驚いたようで、3と4の指(中指と薬指)、そして、4と5の指(薬指と小指)でも楓にやらせてみた。すると、楓は難なくどちらもクリアしたのだ。更に、左手でも試してみると、楓はこれもアッサリと出来てしまった。
 しかも、どの指でも粒の揃った綺麗なトリルが弾けるのだ。挙句、この訓練の最終課題である、両手同時にトリルで弾くことさえ、容易くこなせたのだ。やってみたら出来たと言うより、楓はもともとそうやって弾いていたのかもしれない。 それぐらい、自然に弾いているのだ。
 これは、毎日少しずつ継続して、何ヶ月も掛けて両手の指の靭帯を鍛え、それぞれの指が独立して自在に動かせるようになる為の訓練のはずだ。なのに、楓は何もしなくても靭帯が強く、しかも自在に動かせたようだ。その上、脱力も教えなくても出来ている。楓の天性のセンスを目の当たりにしたその時、彩音はもう一つ、驚愕の事実にも気付いたのだ。

「ピアノの音が違う!」

 楓が弾くと、さっきまで自分が弾いていた同じピアノなのに、とても透き通った音に聞こえるのだ。混じり気のないピュアなサウンドは、心地良く彩音の心に染み渡り、細胞の一つ一つを和やかに振動させた。とてつもない敗北感に苛まれ、悔しくて悲しくて腹立たしいのに、楓の奏でる音は、そんな彩音の感情さえ優しく包み込むのだ。
 彩音は、半ば放心状態に陥り、無言で加納の自宅を出た。



「本当に、楓の練習時間、減らせられるの?」
「どうだろうね、でも、やってみるわ。とにかくお母さんに任せて」
「今度のコンクール、楓には勝ちたいの」
「大丈夫よ、いつも勝ってるじゃない。今度も勝てるわ」
「バレエと英語、辞めてもいい? それに部活も。塾は真面目に続けるから、ねぇ、いいでしょう?」
「お父さんにも聞いてみないとね。でも、多分、お父さんも分かってくれるわよ」

 彩音は、早速スタインウェイでシューベルトの即興曲を弾いてみた。調律したばかりの引き締まった音に、新品ピアノ特有の匂いが漂う。滑らかなタッチに過不足のないレスポンス。とても弾きやすい。弾き手の能力を最大限に引き出してくれる。そして、よく響き、よく歌う。
 このピアノでしっかりと練習すれば、楓に負けるわけないわ……彩音は、少しずつ自信を取り戻していた。


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