見出し画像

読書 | 小説作法 📖スティーヴン・キング

 去年の暮れの頃から、文章の書き方の本を読んでいる。
 清水幾太郎、筒井康隆、三島由紀夫とつづいた。今はスティーヴン・キングの「小説作法」(邦訳でね😊)を読んでいる。

 たいてい、繰り返し読む本ならば、図書館で借りて一読したとしても手元に置きたくなって購入する。しかし、この本はまだ購入していない。というのも、図書館に行くとあまり借りる人がいないようで、読みたくなったときにはいつでも借りられるからだ。とても面白く有益な本なのに「超穴場」的な本。キングは大人気作家なのにね。みんな、キングの作品のほうを借りてゆくんでしょうね。

 この本は、小説だけでなく、およそ文章を書いている人にとって大変有益な本だが、ノウハウを箇条書きに書いてあるわけではない。キングの生い立ちから説きおこして、キングがどのような作品を読みどう思ったのかが切々と語られていく。
 
 その中で、誰でも実践できそうなことが書かれている。いくつか挙げてみよう。実際の原文では箇条書きになってはいないのだが、便宜上、箇条書きにしてみる。


①難しい語彙は使うな!
(前掲書、p133)


文章を書く上で心して避けなくてはならないのは、語彙の乏しさを恥じて、やたらに言葉を飾ることである。

(中略)

今からは、心付け(tip)を言うのに報酬(emolument)などと仰々しい言葉は使わないよう、胸に誓わなくてはいけない。

「ジョンはゆっくり糞をした」でいいところを「ジョンはゆっくり排泄行為を終えた」と言う必要はない。行儀が悪い、品がない、と思われるのが心配なら「用を足した」でも「済ませた」でもよい。汚い言葉を使えと言うのではない。

要は平明、簡素を心懸けることである。語彙に関しては、適切で生きがいいと思える限り、真っ先に浮かんだ言葉を使うという鉄則を忘れてはならない


🙄私の考え🤔

 別に難しい言葉を使うな!、というわけではないし、小説ではなく、詩や俳句・短歌を作るときはまた事情が違うだろう。
 けれども、エッセイや小説を書くときには、ふだん自分が使わないような言葉は避ける。最初に思い浮かんだ言葉こそ、読者にとっても分かりやすい言葉であることがほとんどだからだ。凝った言葉で凝ったことを書こうとすると、単に分かりにくい文章になるだけだ。間違っても、深くて味わいのある文章にはならない。

 小説やエッセイは、作者の心を読者に伝えるために書くのであって、知識をひけらかすために書くのではない。


②文章に必要なのは名詞と動詞だけ。
(前掲書、p137)


 任意の名詞1つに動詞を添えれば、それだけで文章になる。「岩が破裂する」「ジェーンは送信する」「山が浮かぶ」どれもれっきとした文章である。

(中略)

 文法はただ腹立たしいだけの煩瑣な規則ではない。文法は、思考を自立させ、歩行を促す杖である。しかも、切りつめた単文が、ヘミングウェイの作品ではことごとく効果を発揮しているではないか


🙄私の考え🤔

 複雑な文を作ることを考えるより、「主語+動詞」だけで文を組み立てることを考える。
 もちろん、小説すべてを単文で書くことは難しいけれども、余計な副詞や形容詞は必要ない

 noteでもよく見かける、読む気持ちをそぐものに次のような感じの小説がある。ちょっと架空の作品を作ってみますね。
 私もやっちゃうことがあるけど、下手な文章例😳💦。

例えばこんな感じの小説。


❌[ダメな例]❌

 朝起きると、カーテンから光が射し込んでいた。外に出ると太陽が眩しかった。いつものように、習慣になっている散歩に出かけると、桜の花がヒラヒラと舞っていた。ああ、もう春の終わりも近づいてきたのだな、と寂しくも、夏の始まりを感じたのであった。

⭕余計なものをそぎ落とした文⭕

 朝起きて外に出た。快晴だ。いつも通り歩いた。桜の花びらが舞っている。初夏の訪れが近いのだろう。


 まぁ、好みも多少あるでしょうけど、「カーテンから光が射し込んでる」とか「太陽がまぶしい」とか要らない。言いたいこと・描写を変えずに、大幅に削ることができる。「快晴だ」で済むのに、なんで余計なこと書いてるの?意味なくね?

 まぁ、ダラダラと書いて、経った時間の長さを読者に感じさせたいとか、そういう意図もあるかもしれないけど、無駄は無駄。余計な飾りは要らない。


③受動態(受け身形)を使わない。
(前掲書、p139)


 受け身は避けるべきである。

(中略)

 思うに、消極的な愛人が受け身の態度を好むと同様、臆病な作者が受け身に逃げる。受け身は安全なのである。進んで厄介な行動に出ることはない。


🙄私の考え🤔

 すべて学校の英語の時間に習った「受け身」(受動態)。まず復習してみましょう。

①私は彼を愛しています(能動態)。
②私は彼に愛されています(受動態)

 日本語だと①を「私は愛しています」でも違和感はないが、英語だと「I love」だけでは文章として成り立たない。
 しかし、②の場合、彼に(by him)は省略しても一応、文は成立する。

I am loved (by him). 

 そもそも、受け身形(受動態)とは、誰がやったのか分からない場合に使われるものである。

He was run over. 
(彼は[車などに]ひかれた)
He was killed in the war.
(彼は戦死した)
みたいに犯人がわからなかったり、判然としない場合の状況を表すための文法。あるいは、わかっていても言いたくない場合に使う文法である。
 
 だから、小説を書く場合、作者は「受け身形」は極力使わないほうがよい。受け身のオンパレードになると、読者は訳がわからなくなってくる。
 「何が?」「誰に?」みたいに。
 
 また、能動態の場合「動詞」1つで済むのに、受け身形の場合は動詞部分が「be 動詞+過去分詞」になり重たく感じられる。

 まぁ、キングが言っているのは、「~された」「~された」「~された」が続く文章だと、そこには積極的な行動がないから、何も起こらない退屈な物語になるだろうということを指摘しているのだと思う。

 また、キングもすべての受け身形を排除せよ、と言っているわけではないが、なるべくスッキリした分かりやすい簡潔な文章を目指すならば、受け身形は少いほうがいいだろう。文章を書くとき、「態」は、少し意識してみるとよいと思う。

 受け身関しては極力使わないのが原則だ、というキングの指摘はその通りだと思うが、場合によっては受け身形を使ったほうが分かりやすいし、文章がスッキリする時もある。

例えば
I was born in America and my parents brought me up there
(私はアメリカに生まれて、両親がそこで私を育てた)

この文の場合、能動態で書かれた「and my parents brought me up there. 」を受け身形に変えて次のようにするとスッキリした文になる。

I was born and was brought up in America. 
(私はアメリカで生まれ育てられた)

「I was born」の部分だって、もともと
「God bore me.」
あるいは「My mother bore me.」という能動態を受動態にした表現だし、
共通構文を使って、2番目の「was」を省略して、全体を受け身形でまとめてしまえば、

I was born and brought up in America.
となりもっと簡略化されたセンテンスになる。

和訳に関しては、もっと簡潔な日本語で表現するなら、
私はアメリカ生まれのアメリカ育ち」とか、
私は生まれも育ちもアメリカだ」のようになるだろう。

 たいてい子供は、親に育てられるのだから、いちいち「両親」と言う必要はない。例えば、祖父・祖母とか、どこかの施設など、両親以外に育てられたなら、そう書けばよい。
 常識的なことや文脈から分かることは書く必要がない


結び


 他にもたくさん触れたいところはあるが、とりあえず3つだけ取り上げてみた。

 「小説作法」は極めて実践的な本であるばかりでなく、キングの生い立ちについても書かれている。だから「自伝+小説執筆ノウハウ」といった感じの本だ。また、キングが読んだ小説についてたくさん語っているから、「評論・書評」のようにも読める。

 読んで損はない。というか読んでみてくださいね😄。少なくとも私には大いに勉強になりました。あとで、英語原文で読んでみたい。


スティーヴン・キング(著)「小説作法」



#スティーヴン・キング
#キング
#英語
#文法
#英文法
#受動態
#受け身形
#能動態
#小説作法
#読書感想文
#英語がすき
#小説の書き方
#書き方
#単文
#複文は避けよ
#関係代名詞は少なめに
#後置修飾も少なめに
#形容詞・復習も少なめに


ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が参加している募集

読書感想文

英語がすき

記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします