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読書 | 読む力・聴く力

 先日、『読む力・聴く力』(河合隼雄・立花隆・谷川俊太郎、岩波書店、2006年)という本を読んだ。それぞれの方の言葉や読書への思い、対談などが収録されている。

 前掲書の冒頭には、河合隼雄さんの「『読む  聴く』の大切さ」というエッセイが掲載されている。



河合隼雄、「読む  聴く」の大切さ、前掲書pp.3~5より引用


 「読む  聴く」というと、何らかの文章を読む、他人の話を聞く、というので、「話す」とか「書く」とかの行為に比して受動的と思われる。しかし、視覚、聴覚という点から考えると、ぼんやりと何かを見ている、何かが聞こえる、というのよりは、能動的で、そこは主体的な意志が関係していることがわかる。

 その上、日本語の「よむ」は、歌をよむとか、文章の意味をよみとるとかの表現もあるし、「きく」には、質問をするという意味もあって、より能動性が感じられることもある。つまり、人間が「生きる」ことに深くかかわってくる。

 ところが、科学技術の急激な発展により、便利で快適な生活ができるようになったが、どうしても効率的なことへの追求が強くなりすぎて、短時間で多くの情報をわかりやすく得る方法が進歩しすぎて、じっくりと「読む」とか他人の話を「聴く」とかのことがおろそかになる傾向が生じてきた。

 テレビやビデオの普及によって、人々は瞬間的なエンターテインメントの方に心を奪われることが多くなり、いわゆる「活字離れ」の傾向が強まってきたのである。

 しかし、実際に人間が「生きる」ことを考えるなら、人間の平均寿命は急激に長くなり、昔の人に比べると、現代人は極めて長い人生をおくることになった。人間の一生を全体として捉えるのなら、長い、じっくりとしたスパンで考える方が妥当でないだろうか。このことを忘れて、若いときに瞬間的な楽しみを「生きる」ことと錯覚する人は、後の長い老後の人生を灰色のものとして過ごさねばならなくなる。

 こういうわけで、何かと気忙しい現代においても、じっくりと「読む  聴く」ことは非常に大きい意味を持っている。このような時代であるからこそ、余計に大切と言っていいだろう。


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この箇所を読んだ感想


 言語の4つの技能というと、「話す」「書く」「聞く」「読む」のことを指します。

 たしかに一般的に言って「話す・書く」が能動的で、「聞く・読む」は受動的であると考えられています。

 しかし、とっさに出てくる言葉を発するとき、ほとんど何も考えていないこともあるし、書くときだって同じように、成り行きにまかせてただ思い浮かんだことをつらつらと連ねることもあります。

 「読む・聞く(聴く)」はどうでしょうか?
 本を読むとき、文字を追っていくわけですが、ぼーっと読んでいたら、字面を眺めているだけになります。「読む」というより、「見える」という状態に近い。
 「聞く(聴く)」も同様ですね。目の前にいる人が話せば、「聞こえる」けれども、理解がなければ、聞いたことにはなりません。

「ねぇ、きいてるの?」
「きいてるよ」
「じゃあ、何を私が言いたいのか説明してみて!」
「◯✕◯✕~、ってことだよね」
「ぜんぜん、きいてないじゃん」

 「きく」ということには、どれだけ理解したのか?という意味が張り付いています

 こう考えてみると、「話す・書く」ことが能動的であり「読む・聞く」ことが受動的だとは必ずしも言えないように思えてきます。

 「よむ」には、「読む」や「詠む」があるように、「はなす」には「話す」や「離す」があり、「かく」には「書く」や「描く」や「欠く」もあります。


立花隆「人間の未来と読むこと・聴くこと」、前掲書、pp.46~47より引用


 僕はいろいろなことを書いていますので、フィールドによって全然違うのですが、特にサイエンスのものは研究現場に行って、その人の話を聞くということが根本的に一番大きな材料になります。ものを書くというのは、材料の仕込みがあって、それから自分でその材料から何かをつくり出して送り出す。要するに僕自身に情報を入れる仕事と外に出す仕事があるわけです。

 このインプットとアウトプットの比を一般的にIO 比(*アイ・オー比、私の注⚠️)といいます。I O 比が高ければ高いほど(*インプット➗アウトプット、私の注⚠️)、要するに材料をたくさん入れて少し出すと、その圧縮比が高いほど、情報がたくさんつまったいいものが書ける。一般的にどれくらいが適正IO比か。たとえば種本を一冊読んで自分も本一冊書いてしまうみたいなこと、これは一対一になってしまいます。ほとんど中身がない本になってしまうというか、誰かのものを盗作をするみたいなことになってしまいます。

 一般的に言っては、だいたい百対一ぐらいIO比がないと、ちゃんとしたものが書けません。だから本を百冊読んで、一冊本を書くという感じです。それでサイエンスの場合は、論文があるわけですが、それはその人の研究のほんの一部しか書いてないのです。その人の論文を百読んで、その百分の一ぐらいのものを出したのでは全然だめなわけで、その人に実際に会って、やっている研究を根掘り葉掘り聴く。


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この箇所を読んだ感想


 立花さんは、「インプット対アウトプット」の比(率)のことを「アイ・オー比」と言っています(*「 I O 比」と書くと、数字の「10」に見えてしまうので、以下「アイ・オー比」と書きます)。

 確かに、修士論文や博士論文を書くときには、他の人の論文を最低100本を読んだ上でないと1本の論文を書くことはできません。

 エッセイや小説では、論文のような一般的に「参考文献」(references, bibliographies)をすべて載せるということはありません。しかし、研究の場合には、100のインプットに対して1のインプットというのは納得できる話です。それくらい読まないと「こわい」というのもあります。

 自分が「今までにない斬新な研究だ」と思っても、それはもう既に研究し尽くされていることかもしれない。また、何人もトライしてみたが、誰でも行き着く先の結論が同じものにしかならないこともあるでしょう。あるいは、もう当たり前になりすぎていることで、あえて言うまでもない陳腐なことかもしれません。しかし、実際に研究という名に値するものかどうかは、少なくとも100くらいの関連研究論文を読まなければわかりません。


結び


 この本を読んでいて思い浮かべたのは「note」との接し方です。

 「連続投稿◯◯日」という記事を見かけますが、「連続◯◯日note記事を読みました」という投稿は、今のところ私は見たことがありません。

 おそらくですが、「記事を書くこと」が能動的であり、「記事を読むこと」が受動的なことである、という考え方を持つ人が多いからではないでしょうか?

 最近の私個人の実感として、「書く」ほうが「受動的」であって、「読む」ほうがヨリ強い「能動性」がないと続かないように感じています。

 立花さんの「アイ・オー比」という考え方に基づけば、100の記事を読んで1つの記事を書く、くらいがバランスとして良いのかもしれない、と思いました。

 noteの記事は、基本的に論文ではありませんが、「アイ・オー比」(読んだ記事の本数➗書く記事の本数)を少し意識すると良いかもしれません。
 それくらい読んでいないと、他の方の作品への批評をするにしても、非常に内容も含蓄も薄いコメントになります。

 とか言って、一冊の本を読んで、高々3000字程度の記事を書いている私は「如何なものか🤔」という思いも持っています😄。


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