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エッセイ | 二項対立(二分法)について

 複雑な事象をなんとかして捉えようとするとき、私たちは、絡み合う原因を解きほぐして簡単な要素に還元しようとする。
 二分法(二項対立、dichotomy)とは、もともと論理学の言葉で、絡み合う複雑なものを、作業仮説(working hypothesis)として、とりあえず二つのものに分けて考えるという手法である。
 とくに論理学を学んだことのない人(私も含めて)でも、日常的に使っている。私たちの生活は、常に「二分法」で成り立っていると言っても過言ではない。
 「出席すべきか、欠席すべきか」「続けるべきか、辞めるべきか」「やるか、やらざるか」、「生きるべきか、死ぬべきか」など、枚挙に暇がない。

 なかでも、日々の悩みについて、「精神的なことか?肉体的なことか?」「理性的なことか?感情的なものか?」と分けて考えることが多い。

 二分法を使って考えるのは、高尚なこととは限らない。
 例えばあなたに「大嫌いな人」がいたとしよう。会うたびにあなたは不快な気持ちになる。その大嫌いな人は、あなたに、あからさまな嫌がらせをしたわけではない。「会っても挨拶をしない」とか「いつもぶっきらぼうな対応をする」とか、第三者から見れば、「その程度は我慢しなさいよ」的なことが積み重なって大嫌いになった。よくあることだと思う。
 そこであなたは考える。「私が気にしなければ、実害はない。感情的にならずに、理性的な対応をしよう」と。

 こんなふうに、自分の精神的な領域を「理性と感情」とに分ける。そして、「感情」はとりあえず封印して、「理性」的に行動しようと考える。誰でも経験したことがあるだろう。

 しかし、である。いったんは自分の心を理性と感情とに分けて、感情を捨てた行動をしようとしても難しい。感情というものさえも、理性はなんとか理性的に処理しようとするからだ。
 「あいつなんか大嫌いだ!」と言葉に変換した時点で、すでに理性が感情を言葉に落とし込んでいる。


 上に書いたように、私は問題解決の端緒として「二分法」的思考方法で考える。しかし、出てくる結論は、「そもそも分けられないものを、分けて考えているのかもしれない」という思いである。
「二分法はどこかおかしい」と思いつつも、思考の出発点として、「二分法」から逃れることができない。二分法以外に、きっとまったく別の思考法があるに違いない。


今回の記事は、一年くらい前にNHKで放送された、数学者・望月教授の「宇宙際タイヒミューラー理論」に関するスペシャル番組を再見して、思ったことを書いてみました。

 

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