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展覧会のこれから - 最近何をしたか 11/12-11/18

普段常々思っている事がある。美術館に展覧会を見に行くとごった返していてろくに見られない。まるで芋を洗うような状況で有名作品になると近寄れもしない。大抵は年配の方々で、いくらかは観光バスとかで来ていて平日にも多い。美術や芸術に興味があるのだろう、日本人らしいしとてもいい事だと思う。しかし彼らはリタイヤし自由な時間が多いのか、こちらがいつ行っても集中している残念。これは展示作品のプロモーションが地元テレビ局の後援やスポンサー中心に動かされていて、活字も映像も含めメディアで入場を促す活動を大々的に行っているからではないか。それが悪いわけではない。しかしすべての人がその展示に興味があるわけでもないだろう。それが経済活動でそれがないと美術館もやっていけない、そうかも知れない。しかし展示物を味わうにはとても残念な場合があるのも事実だ。
そうしているとこういう記事に出会った。

先ず以って日本はパンデミックではない。しかし確かに今年のウイルスをめぐる騒動は美術展というものを考えるのにいい機会ではないだろうか。内容の一部は上記の意見と近似であり、逆にマスメディアとの共催、その構造が歪な太り方をしたモンスターだと思ってしまう。展覧会を展覧会として楽しめるように、学べるように、当たり前のことを当たり前にするようにはどうすればいいのかという事を考える機会。三密を回避するという理由を建前にそれをやってゆければいい。そしてある程度のコストを払うのは公共物である美術館にとって仕方のないことだし、質を求めてコストがかさむのはある程度仕方のないことだと思うしかない。ここに書かれているセーフティネットをどこまでやるのかは難しい問題かもしれない。芸術作品を万人に伝えるという文化的な側面は大切かもしれないがこの世では限度もある。上記のように現在の歪な太り方をしたモンスターのような展示会のやり方でも割引券、タダ券をばらまいたりしている。それを本当に必要な人々に届く方法を考えなくてはならない。別にこの事だけではないけれど、個々の人間が自分に近いところから考えていくことしか始まりはない。


変わらないで世界

見えないものに怯えている。エビデンスたる数値はいくらでも存在するのに。自分の思う事だけを信じ、立ち止まりはしない。自分だけを信じるものは、恐怖は風に乗ってやってきているという。不正が蔓延っているという。時々は立ち止まり考えなくてはいけない。自分の世界の中だけでの思考は時々見直す。もう少し広い視野で考え直してみる。


大切な友人だ

多分どこの国でもそうだけど、共に暮らすものたちを擬人化するのはよくあることだ。生き物や物などに名前を付けたりかわいがったりするのはどこでもある。生き物は特にそうだろう。それに例えば車、メンテナンスというケアを怠らず個体の名前までつけたりね。そういうのもあるだろうし、パソコンに名前をつけたりして共存している人もいるだろう。どこにでもあると書いたが日本では特にあるような気もしないでもない。データ少佐の詩を引用しているが、現実的には彼だって物である。そういう面において生き物と物に差はあるのだろうか。


トウキョウピラミッド

いや千葉だから。――とかではなく、東京ロッカーズならぬ東京ニューウェイブの時代、もちろんロックもポップスも歌謡曲もあって幸せな世界に生きていた。いや今だって幸せだけどね。でも記憶は曖昧なもので過去の甘い記憶を美化してしまう。だがそれは美化ではなく存在していた感触は手にも残っているかな。そしてピラミッドの頂点に立ったのは千葉の、東京でのハルメンズだった。聞けば分かる。感じれば分かる。見れば分かる。直撃してくるはずさ。それにニューロマンサーにもチバシティって書いてあるしね:-)


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