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適応ってなんだ

息子たちの面談を終えて、自分の考えが変容していることに気づく。

これまでは、「もう迷惑かけてすみません、何かあったらあったらしゃつけてください。(厳しく叱りつける:新潟弁)」というようなスタンスだった。

が、「子どもの良さを拾って、伸ばしてもらってありがとうございます」という考えに変わっていた。

この「伸び伸びさせてもらってありがとうございます」はイタズラな言い方になると「子どもの邪魔をしないでありがとうございます」ともなるかもしれない。

…。

環境に適応するという表現が教育界隈では多用される。

ここから派生される表現も散見される。学校不適応、学級不適応、適応指導、適応指導学級、適応指導教室…。いずれもネガティブな印象がついてまわる。

これは、学校という社会に子どもが適応するべきであるという考えに立脚しているような感。

世相が、「学校に行ってこそ」から「その子どもにあった学びの場を尊重」に移ってきたからこそ、かつての適応指導教室は学習支援センターやその他の表現に呼称を変えつつある。

さてさて、これまでの自分がそうであったように、子どもが将来生きていくのは社会であるから、その社会に子ども自身が適応していくことは必要であり、学校は社会ともいえるからそこに適応していくことは子どもの将来を大切にすることにもなる。という考え方もあるだろう。そうした形の社会は一定数存在し続けるのだと思う。

一方で、人が環境に合わせて適応するのではなく、人に適応する環境を生み出す人も社会には必要なのだと思う。
私は自身の生育歴の中で、「適応」できない人たちがどんどんと分離され、目の前から姿を消してきたのを見てきた。これが望ましい世の中の姿だとは思えない。
人に適応する環境は、小さなコミュニティ、同好会、地縁団体、事業所、形は様々であっていいと思う。
サードプレイスでは足りない。4、5…無数に。

多様な環境が生まれ、存在していくことが必要だろうし、そうした環境を創造する人が大勢生まれてくることが期待される。

「環境に適応するのではなく、自身が"よい"と思う環境を創り出す人」が様々に活躍する社会を望む。


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