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大人のお約束

 「また、今度、お食事でも。」
 「ええ。ぜひ。楽しみにしてますわ。」
 ちまたでよく交わされるこんなご挨拶。いわゆる、社交辞令というやつ。

 社交辞令にも数々のパターンがあって、TPOに合わせて自由に使いこなすには、かなり熟練した社交術が必要だ。 大人になると、こういうスマートな別れのご挨拶をさらりとやってのけなければいけなくなる。

 「今度」というのは、翻訳すれば、「いつになるかは知らんけど」という意味であり、「ぜひ」というのは 「アテにはしてないっすよ。」という意味にでもなろうか。
 大人たるもの、これらのセリフの後で「いつにする?」だの「約束よ!」だのという無粋な確認作業なんかを やってはいかんのである。やったが最後、相手の顔には「当惑」の色がありありと浮かぶこと請け合いだ。

 なぜならこの手の社交辞令とは、さして親しくもない相手と現在のつながりを切れぬ程度には保ちつつ、今回の会合や対面を 穏やかに終わらせ、その場から速やかに立ち去るための、いわば合図だからだ。

 わたしは、このタイプの社交辞令を「大人のお約束」と呼んでいる。
 小さい頃から「お約束は守るものです。」と教わってきたが、この「社交辞令」という名の大人になってからするお約束には、守らなくっても別段誰からも叱責を受けないという特別措置が布かれている。 それどころか無理矢理守ろうと努力すると、果てには陰で相手からあきれられてしまうという罰ゲームが 用意されていたりもする。

 守らなくてもいいような約束なら最初からしなければいいのに、とも思うんだが。 「また今度。」と言っておきながら約束もせず、会わずにすむほどの軽くて薄い関係など、必要なさそうな気がする。 社交辞令は、きらいだ。

 有名な落語の噺ネタに、『京の茶漬け』というのがある。
 礼や形を重んじる昔気質の京都の人々には、不意のお客にはお茶すら出さないと言われるほど意固地なところが残っている。むろん、客に対してイヤな顔など見せるはずもなく、客が早々と暇を告げる頃、このように声を かけるのだ。
「なんのお構いもしませんと、えろうすんまへんどしたなぁ。何にもございまへんけど、ぶぶ漬け(お茶漬け)でも あがっとおくれやす。」
 ここでこれを真に受けて、「あ。そうですか?じゃ、いただきまひょ。」とばかりに上がり込んでお茶漬けを ごちそうになったりしてはいかんのである。これは、翻訳すれば、「何の前触れもなしに来るさかいにな~んの準備もできてへん。今度来るときは声かけとおくれやす。」という意味の「おあいそ」なのだから、お言葉に甘えちゃって お茶漬けをいただいちゃうと、後の後まで、
「いややわ、あの人。ホントにお茶漬け食べていかはってんよ。お茶漬けくらいしか出されへん、もてなしもようっとせん家やと思われてたらどないしよ、恥かかされたわ。くすくす・・・。」
ってなぐあいに笑いモノにされるわけである。たかがお茶漬け一杯で笑いのネタにされては適わんじゃないか。
 この場合の、大人としての美しい返礼としては、
「いえいえ、こちらこそ急におじゃましてしもて。また寄していただきますさかいに。」
といって立ち去るのがマナーっちゅうものである。ご先方様のご好意を無にしては・・・なんて考えて 努力しちゃう必要は、どっこにもないわけだ。
 奥ゆかしいと言えばいえなくもないが、いかんせん面倒くさい。しかしまあ、今の世になってもこういった 「いけず」なことをやってるとも思えないが、これがつまり、社交辞令を知らないと、こうも赤っ恥をかくんだよという喩えの最たる見本と言えるかもしれない。

 というところで、「大人のお約束」に話を戻そう。
 わたしとて、一般社会でふつうに暮らしているいい歳をした大人であるから、いっぱしの社交辞令を 見事に使いこなすだけの術は身についている。身につけているだけでなく、仕事柄ごく頻繁に使用すると言っていい。

 本来、わたしはご縁のあった方とはぜひ次の機会もお会いしたいと思う質の人間だ。次回のチャンスを 待つんではなく、自分から積極的にセッティングしてでもお会いしてお話ししたい。「またね。」「今度ね。」で お茶を濁している場合ではない。「またね。」と来たら、「いつにしよう、来月はどこか空いてる?」と、 間髪入れずにアポイント設定に入りたいくらいだ。こどもが夕飯時にちりぢりに各々の家へと別れながら、 「明日またね~!」と手を振る、あの約束のように。また、そうしたいと思うほどの相手でなければ、時間を共有する意味がない、とさえ思う。

 けれども、おかしなもので大人社会に身を置いていると、社交辞令で場を締めないと収まりがつかない。 哀しいかな、お会いしたい人間とだけお付き合いするわけにいかないのが、大人の社会のお定まりだからだ。 それなので、違和感を覚えつつも使っているうちに、図らずも社交辞令は、何も考えなくても口をついて出る 「社交道具」として馴染んでしまった。

 そんなわたしも、今までにたった一度、「大人のお約束」を使わずに、こどものように、相手のスケジュールの空きを探してもらって、ついには具体的な約束まで取り付けたことがある。呆れられたってかまわない、そう思った。 「大人の約束は、きらいなんです。」そう言ったあの時のわたしは、まるでこどものようだったろう。

 今にして思えば、あの頃の私はまだ社会人としても人間としても未熟でこどもで、大海を知ったつもりで世の中の浅瀬をぱちゃぱちゃ泳いでいたに過ぎなかった。

 そうやって取り付けた約束の日、年上のその人といっしょに過ごす時間はわたしなどには見知らぬ話題に充ち満ちていて、繰り出す話はいつも耳に心地よかった。そして、そんなときにはいつも、おいしいお酒がそばにあった。

 お酒を話のおともにするきっかけになったのは、山形の「雪漫々」。
 そのきれいな緑の瓶をお店のクーラーの中に見つけ、2人分を高杯にそそいでもらった。そのお花のような吟醸香、ひんやりとなめらかなのどごし。口当たりは甘いのに、のどの入り口ですっと身を退くきれの良さ。パッと目の前が明るくなるような驚きがその場を包んだ。
 それ以来、おいしいお酒を探りながらの茶話会ならぬ酒話会が、途切れることのない約束で続くようになったのだ。

 鍋屋の6人も座ればいっぱいのカウンターの端に陣取り、大将の肩越しに見えるクーラーからめぼしい日本酒を選んではグラスに注いでもらう。銘柄に詳しいわけじゃない。いわゆるジャケ買いのように、勘で探って楽しむのだ。そして得てして日本酒に見せられた人間のその勘は当たる。
 春の宵はおばいけとふきの煮物、冬はあんきも、いわしのつみれ鍋、胡麻鯖、大将自慢の酒のあてを前に枡に据えたグラスになみなみとあふれる透明なお酒を口から迎えに行く。料理のこと、仕事のこと、季節のこと、出かけた先のこと、おしゃべりは止まることを忘れたかのようだった。

 お酒はそれだけ飲んでもたのしめるものがもちろんあるけれど、やっぱり料理と合わせるお酒がわたしたちには合っているよね。あらたまってそんなことを言った覚えはないけれど、わたしたちのおしゃべりのそばにはいつも、おいしいお酒と心づくしの料理があって、グラスからあふれて枡に溜まった透明なしずくに、穏やかな時間が溶けていった。

 足を下ろす地面が柔らかく感じられるようなやさしい酔いに揺られながら、こんな日がずっと続けばいいのにと、ものには終わりが必ずあることを知らないこどものように、わたしは心の奥で小さく願い続けていた。

 次の約束をできなくなって、もうどれくらい経ったのか。
 「じゃあ、また、今度ね。」
 そんな大人の約束さえ、することができなかった。
 行きつけだった鍋屋も先ごろ店じまいをしたと聞く。


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