演劇の本質 〜宗教からみる「他人の物語」の宣教とジャーナリズム〜

先日、尊敬するとある作家のツイートに「日本の演劇が低調なのはまともな劇作家が少ないからではないか」というようなものを読んだ。
そして、私見だがキチンとした作家の基礎教育を受けないまま活動している小劇場作家も多い。

欧米では基礎教育がしっかりしている。日本ではまともな俳優教育機関(JOKO演劇学校、手前味噌だが、自身が講師を担当している。スタニスラフスキー・システムをベースとした演技教育。その他、欧米、ロシアでの演劇教育とテクニックを習熟した講師によるムーブメント・ヴォイス。)は増えてきているが、劇作家には「日本劇作家協会」くらいしか思い浮かばない。

数年前、劇作家協会の主催する育成講座にお手伝いで参加させてもらった経験もありますが、その通りだと思う。

昨今の演劇界では、所謂エンタメ演劇がもてはやされているが、これは資本主義との相性が良いため。

そして、人とお金を集めなければいけないため「観客にとって分かりやすくて面白い作品」をサービスとして提供するという愚行の加速が止まらない。

分かりやすいことは悪いことではない。でも、それは観客の想像力を奪う行為でもある。演出家、講師としてはそのような「説明的」な芝居を役者が行うと間髪入れず指摘し、修正を加えていく。


芝居に於いて、説明と表現は別物である。

このような、人間の想像力を作り手が奪わないようにするために、まずは自分の手の届く範囲の人と作品作り、人材育成の仕事と日々戦っています。


では、なぜこのような現象が起きているのか。


それは、多様化された日本で、演劇というものを、基礎教育を受けていない作り手が増えたこと。説明してしまうため、観客から考える力、想像する力を奪う麻薬みたいなもの。

分かりやすさ、そして派手なパフォーマンスという中身のないもの、外側からの強い刺激だけで、強制的に観客の脳内アドレナリンをあげ、麻痺させている化学物質。

レッドブルの飲み過ぎで身体を壊したという報道もありました。高い金額を払って、麻痺させ、人間の思考力、想像力を奪う作品に未来はあるのでしょうか?


仏教で端的に考えてみよう。

鎌倉時代に仏教の新しい宗派が6つ出来た。
その当時は「仏教は貴族だけのものじゃないぞー!」という声が上がり、大衆化の動きがあった。

その時に複雑すぎる仏教の思想などを伝えるのは難しい。そのために簡易化が繰り返されてきた。「ただ、唱えよ」「ただ、座れ」しまいには「ただ、踊れ」と。「Look at your self」「Just sit down」

簡易化によって、それをやればいいと続けていた結果、「なんで、こんなことしてるんだ?」と気付く。いや、気付かないまま、それをやることが自体に意味があると錯覚し本末転倒の事態になっているのが現代の演劇事情ではないか。本質と目的を見失う。

つまり、簡易化によって、物事の本質と理由がわからないまま、ただ、やってるだけ。「自分は何をしたいのだろうか?」という事が分からないままだ。それに気づいた時、大切な時間を失い、後悔と絶望が襲う。

必要なのは、最初から本質ありきで作品を書く劇作家と、その作品を観客とのコミュニケーションを通じて感受してもらうために技術を身につけた現場製作者(演出家、役者)なのではないか。

自身が演出、講師をする上で古典や近代劇の名作と言われるもの、または本質をついた数少ない現代作家のテキストを使います。

このような不勉強な作り手が不在している作品に価値はあるのでしょうか?

レッドブルに人類の幸福はあるのでしょうか?

漫画「ONE PIECE」に出てくる人工悪魔の実で人々は幸福を手に入れたでしょうか?ドフィの洗脳に気付いているでしょうか?

ジャーナリストは世界の真実を報道するのが仕事です。現地にて取材をしていないジャーナリストの報道を信じますか?

勉強してない人間ほど、私見を交えて、世界の真実をねじ曲げます。自分の利益しか考えていません。

流行るもの、簡単なもの、便利なもの、早いもの。

その分、人間は腐りやすくなり、心を腐らせる。


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