会話

カウンセリングの練習をするワークショップを継続して、受講しています。理由は、ボディワークという身体を介して心と身体に働きかけることを生業としていても、ボディワークを提供する上で少なくともセッションの前後にはいくらか会話が挟まれます。また、日常では目の前の人に「この人は側頭部に動きがない」「肝臓の辺りに影がある」「首の筋肉が強張っている」などと思っても、「触らせて」とはならないからです。当たり前ですが目の前の人の緊張を感じつつ、会話をしていく必要があるからです。

会話の中では、ポイントとなる場面が訪れます(以下すべて私見です)。カウンセリングワークショップにおいての会話とよいのですが、友達や家族や同僚との会話の中にも、実際にポイントとなる場面が現れ、そして多くは流れていきます。

そのポイントに気づけるかどうかが、まず1つ大切なところです。そして、そのポイントに気づいて、踏みこめるかどうかがまた1つ重要になります。踏み込む際には、相手への敬意や配慮、慎ましさが必要です。愛が必要だと言い換えてもいいのかもしれません。他愛もない雑談だとそんなことを意識しなくていいのかもしれませんが、せっかくこういう世界を知ってそれが面白いと感じているのだから、レストランでもコンビニでもその気分で会話ができればと思っています(できているかどうかは別にして)。

エドは自らのタッチ(クライアントへの手を介した接触)を、ラブ・タッチと言います。ウェイティング・タッチとも、アウェアネス・タッチとも言います。エドにとって、愛とは待つことであり・相手に気づきがあることなのです。そのタッチを何年も学び続けて、会話においてもそうなっていきたいとそんなことを思います。エドのタッチがとても難しいことと同様に、そういう会話もとてもとても難しいものです。

そんなことを意識して「大変じゃないか、疲れないか」と思われるかもしれません。実際は反対にそういうことを無視した方が疲れるんじゃないかと思います。流れ作業のように患者さんやクライアントの身体を触っていく光景を、マッサージ屋さんや整骨院で目にしたことがあります。その身体には人格がともなっているのに、それを無視した世界。それはモールのフードコートのようなそんな気分での他者との関わり合いです。そんな感じだからたくさんの数の施術ができたりする訳ですが、そういう世界は退屈です。サービスを提供する側の多くの人は、疲れ果てています。エドの後輩で私からすると大先輩のトーマスマイヤーズが以前受講したコースの中で「こういう感じだと飽きないでしょ?」と参加者に言ったことを思い出します。飽きるようなコミュニケーションだから、疲れてしまうのです。

なぜこんな口調で、なぜこんなことを言ってしまったのか。このタイミングで良かったのか。あのタイミングをなぜ流してしまったのか。言葉選びが適切だったり、タイミングが適切だったり、トーンが合っていた時の心地よさはピタッとセッションでクライアントの身体の組織と自分の手が噛み合っているときのあの愉しみに似ています。グループレッスンなどで最適なタイミングで誘導ができているときのあの愉しみに似ています。日々試行錯誤ができるというのは、暇と退屈に溢れた社会の中でとても気持ちのいいものです。

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