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【地理1】地図の歴史

現在ムンディ先生のYouTubeで地理を勉強しており、筆者の汚いメモとAIを使ってまとめていこうと思います。

Historia Mundi『地図の歴史』筆者メモ

※このページには、人間の執筆とAI生成の要素が含まれています


バビロニアの世界図

バビロニアの世界図はアッカド語で書かれた粘土板で、紀元前600年頃と推定されており現存する世界最古の世界地図である。中央の円の中にはバビロニアと周辺地域を含む陸地が描かれており、それを取り囲む海洋とさらにその外側に死後の世界とされる陸地が描かれている。

バビロニアの世界図は世界地図を意図したものではあるが、現実世界と一致しているのはバビロンと周辺都市、周辺地理のみである。


プトレマイオスの世界図

プトレマイオスの世界図は紀元2世紀頃に活躍したギリシャの天文学者・地理学者プトレマイオスが著した『地理学』を基に、15世紀に再構成された世界地図である。プトレマイオスは「地球は丸い!球体である!」と主張して地図に緯度や経度を取り入れ、世界で最初の地図帳(アトラス)となった。プトレマイオスの世界図は150年頃に完成し、1525年、1535年、1541年にも再版されている。

プトレマイオスの世界図はプトレマイオスが考案した正距円錐図法で描かれており、扇形で表現され、緯線は同心円、経線は放射状の直線になっている。緯線間隔は正しくなるが、経線間隔は割線の内側では縮小され外側では拡大される。

プトレマイオスの世界図には当時の基準子午線カナリア諸島から東に140~150度、経度からすればほぼ正しい位置にある日本島が描かれている。また地図の周囲には、蟹や天秤といった星座とともに風の神を描いている。

プトレマイオスの世界図はルネサンスによって甦らせられ、コロンブスを西へ駆り立て大航海時代の幕を開いた。


TO図

TO図は西洋中世に用いられた世界地図で、Oの字の中にTの字がはまりこんだ形をしている。Oは世界をとりまく海オケアノス、Tはドン川、ナイル川、地中海を表し、陸地はTの字でアジア、ヨーロッパ、アフリカに3分され、中心に聖都エルサレム、上(東)に天国がある。

TO図は球状の地球の上半分だけを表しており、これは暗黙に地球の北側の温帯の人が住んでいる地域を描くための簡易な投影法としてなされたものと考えられる。

TO図は当時のキリスト教的世界観を表す図式に近いもので、8世紀のスペインの修道士リエバナのベアトゥスが作成したとされる初期の代表的なTO図『ベアトゥスの世界地図』にちなんでTO図全体をベアトゥス図と呼ぶこともある。


マルティン・ベハイムの地球儀

マルティン・ベハイムの地球儀は1492年にドイツのニュルンベルクでドイツの航海士マルティン・ベハイムによって作成された地球儀で、現存する世界最古の地球儀とされている。直径は50.7cmで、経緯線は描かれていないが赤道、黄道、回帰線、極圏が引かれている。

オリジナルはニュルンベルクに保存されているが、現在ではほとんど読解が不可能なため東京大学工学・情報理工学図書館には1847年に作られた複製が所蔵されている。また大日本印刷ではリスボンで製作されたマルティン・ベハイムの地球儀の複製を所蔵している。


マルティン・ベハイム

マルティン・ベハイム(1459年10月6日 - 1507年7月29日)はドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家で、ポルトガル王に仕えた。

またニュルンベルクのゲルマン国立博物館には、ベハイムの像と功績をたたえた記念碑がある。


メルカトルの世界地図

メルカトル図法は16世紀の大航海時代に考案された地図投影法の1つで、多くの世界地図に用いられている。地図上の任意の2点を結ぶ直線が2点間の等角航路を示すため、海図や航路用地図としてよく使われる。

メルカトル図法の地図は緯線・経線に対する角度が正しい「正角図」で、出発地と目的地を結んだ直線と経線とのなす角度を保ったまま進めば目的地に到着できる。

メルカトル図法の地図の長所は等角航路を地図上で表現でき、航海用(海図)に利用できることである。一方短所は高緯度での面積の拡大がひどく、また最短距離が曲線になることである。地球上の離れた点で表示したとき、2点が赤道上あるいは同一子午線上にある点以外では曲線になる。地球上での距離が近いと赤道付近以外でも曲線がほぼ直線になる。

メルカトル図法は1569年にフランドル(現ベルギー)出身の地理学者ゲラルドゥス・メルカトルがデュースブルク(現ドイツ)で発表した。


大日本沿海輿地全図

大日本沿海輿地全図は江戸時代後期に伊能忠敬が中心となって作成した日本全土の実測地図で、「伊能図」や「伊能大図」とも呼ばれる。寛政12年(1800年)から足掛け17年にわたる測量により、文政4年(1821年)に完成した。

大日本沿海輿地全図は大図(1/36000)214図葉、中図(1/216000)8図葉、小図(1/432000)3図葉から成り、日本全国をカバーしている。幕府に提出した正本は明治6年の皇居の火災により焼失し、伊能家に伝来した控図も関東大震災により焼失したとされている。

大日本沿海輿地全図はその驚くべき正確さから軍事上の機密として公にはされず、後世に様々な影響をもたらした。国立国会図書館デジタルコレクションには、明治初期の模写図である大図の全214枚のうち43枚が所蔵されている。


伊能忠敬

伊能忠敬(1745年2月11日 - 1818年5月17日)は、江戸時代に日本全国を測量して初めて実測による日本地図を完成させた商人・天文学者・地理学者・測量家である。

忠敬は現在の千葉県九十九里町で生まれ、17歳で佐原(現在の千葉県香取市の北西部)の造り酒屋である伊能家の婿養子に入った。

49歳で隠居し、50歳で江戸に出て天文・暦学を学び始め、地図作りを始めた。56歳から17年をかけて日本全国を測量し、1814年に第8次測量を終了した。測量方法は主に正確な「1歩」の歩幅を積み重ねるもので、歩いた距離は約40,000km、地球1周分に相当する。昼間は地形や距離を測量し、夜間は星などの天体観測に心血を注いだ。

忠敬が地図を作った目的は「地球の大きさを知りたい」という純粋な思いだった。彼の地図は非常に高い精度を誇っていたことから、地図完成から100年間も使用されてきた。忠敬は1818年に死去し、その後弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させた。


おわりに

世界史を勉強していると地理がどれだけ大事かっていうのを実感するので、ムンディ先生の授業は本当にありがたいです。学生時代は地理にまったく興味なかったけど、これからコツコツ勉強していこうと思います。

−おわり−


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