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サイパン島で戦争被害を受けた比嘉洋子(ひが・ようこ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2023年8月号

比嘉洋子さん

サンパウロ市ビラ・カロン地区に住む比嘉洋子さん(85歳、うるま市出身、旧姓・當銘)は、1944年6月に南洋諸島のサイパン島で起きた米軍の占領(上陸)による戦争の被害を受け、同島で家族とともに2年間の収容所生活を余儀なくされた体験を持つ。

琉球王朝王族の家臣の血を引く祖父の上運天賢松(かみうんてん・けんしょう)氏は戦前、三男であったため出稼ぎとして単身、サイパン島に渡り、その後にマカト夫人と洋子さんの母である光子さんを呼び寄せた。当時、日本の委任統治領だったサイパン島には沖縄県人やそれ以外の日本人が数多く在住。祖父はマンジョカ芋によるタピオカ作りを経て、その後は雑貨屋経営で儲けた。父・當銘由徳(とうめい・ゆうとく)さん、母・光子さんの長女として38年1月にサイパン島で生まれた洋子さんは、島の中心地だったガラパンで幼稚園に通うなど恵まれた生活を送っていた。

「島は年中暖かく、夜は涼しくて、果物や魚の刺し身、鶏肉など食べ物はたくさんあり、本当に豊かな生活でした」と洋子さんは当時を振り返る。6歳になった44年4月、地元の小学校にも通ったが戦時色が強まり、同年6月に授業は中断。同月に日本軍と太平洋戦争を繰り広げていた米軍がサイパン島に艦砲射撃と空襲を行い、上陸。洋子さんの家族は「海からの大砲と、雨のように降ってくる爆弾の弾から追われるように逃げ惑い」(洋子さん)、途中、防空壕に避難するなどした。

「逃亡中、私が履いていた靴には穴があき、日本の兵隊さんが『水をくれ』と言いながら亡くなっていく姿を何人も見ました。あちらこちらに死人の山が重なって、死体からウジがわいていた光景を今でも覚えています」と洋子さんは、戦争の悲惨さを当時6歳にして目の当たりにしていた。

日本軍の兵隊からは事前に、「もし、生き残ったら自決しろ」とサイパンに住む日本人の各家族に手榴弾が手渡されていたという。しかし、祖母のマカトさんは気が強い人だったため、「自決はしない」と家族を説得。日本軍は玉砕したが、洋子さんの家族は米軍の捕虜となり、2年間、島内の収容所で生活した。しかし、戦争で祖父と叔父、叔母ら3人が行方不明となり、家族に与えたショックは大きかった。

収容所では、家族ごとに部屋があてがわれ、食料も米軍の缶詰類など粗末なものだったが、洋子さんは「水が飲めて、食べ物もあり、横になれる(眠れる)だけでありがたかった」という。

洋子さんが8歳の時に日本に家族で引き揚げ、祖父の故郷であった沖縄県具志川市(現・うるま市)で過ごすことに。同地ではサツマイモや野菜類を植え、豚やヤギなどの家畜を飼うなどして生活を送った。地元の中学、高校に通った洋子さんは、学校帰りに毎日、畑でサツマイモを収穫する手伝いを行った。「畑から採ったサツマイモを頭の上のザルに乗せて家まで運ぶのですが、その重さで普通よりも5センチくらい首が短くなりました」。

高校卒業後は米軍基地の交換手の仕事をしていた洋子さん。父親はサトウキビ栽培などをしていたが、59年に沖縄県を襲った台風の影響で作物は倒され、家屋のトタン板が吹き飛ばされるなど被害を受けた。そのことをきっかけに、父親が「外国に行こう」と決心。当初はボリビアのオキナワ移住地に行く予定だったが、現地の飲料水問題などを伝え聞いた結果、ブラジルに渡ることになった。

61年6月、オランダ船「チチャレンカ号」で海を渡った一家は、8月15日にサントス港に到着。父親の友人のツテでサンパウロ市内のビラ・カロン地区に住むことになった。働き者の両親はキタンダ(食料品店)で野菜や果物類を販売して生計を立て、洋子さんは26歳の時に戦前移民の2世である比嘉義則(よしのり)さん(故人)と結婚。夫の義則さんは「夫婦喧嘩を一度もしたことがない」(洋子さん)優しい性格で、1男4女の子供に恵まれた。

2002年に洋子さんは、約40年ぶりに日本への一時帰国を果たした。その機会に、生まれ故郷のサイパン島にも足を運んだが、祖父が経営していたかつての雑貨商店は跡形もなく、松林になっていたという。「その時の松林は寂しそうに揺れていました。戦争というのは、人を痛めつけるということを身を持って体験しました」と洋子さんは、悲惨な思い出を改めて実感していた。

(2023年6月取材)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」

月刊ピンドラーマ2023年8月号表紙

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