ただ考えているだけでなにもしていない時に人は存在するのだろうか

長めの夫実家への帰省中、長男の嫁にもかかわらず、世間一般によく聞こえるあれこれと比べるとびっくりするほど私はなにもしていない。

なにかしないといけないような気はしなくもないのだが、そして本当にときどきなにかしようとすることもあるのだが、ほとんどあきらめてしまった。

中学の時に部活動で上下関係や気の使い方を学んだのは良い経験だった。
もうこういう場所はやめようと思えたから。

家庭でも会社でも、部活動的な文脈ではないところで生活できるのは私にとってはけっこう幸せなことである。
人はみな自分の苦手なルールのゲームに乗らず、比較的快適なルールのゲームに参加したほうが良い。もし選べるのなら。
グローバル経済の動向も運命的な恋愛も人生においてそれはもうものすごく大切だと世の中は言うけれど、実際的には、半径数メートルのルールがどうであるかがなにより大切なのではないか。

しかしながら私には不安がある。
やはり具体的に何かしないといけないのではないか。
頭の端でいつも薄っすらとそう思っている。

ときどき、「なにかよく考えている人」と評されることがあると、ほほう、なぜそれがわかったのだろう、と感心する。
考えていることは私の頭の中にあるだけでは外側の世界には存在しないはずだ。声を発さず、ものを動かさず、何も作らず書かず、他者になにも伝えないし行動にも表さないとき、いったい私がなにかを考えていたかどうかを、どうして外側から知ることができるのだろうか。私はそれが不思議である。

たしかに、なにかを考えている時間は平均よりは多いかもしれない。考えているとき、という事象の中には、マルチタスクをせずにただ考えているというものがある。たぶん呼吸はしている。しかしほかになにもしていない。外側の世界になにも影響していない。

なにかをただ考えているとき、人は存在しているのだろうか。外側の世界から見れば、人間1人分のスペースを消費してはいるものの、なんの影響も及ぼさないとき、人は存在していると言えるのだろうか。世界になんの影響もなく存在してもしなくても同じなら、存在していないと言っても良いのではないだろうか。

裏返すと、世界から存在を認められるためには、具体的になにかしなければならないのではないだろうか。ただ考えているだけでは考えは存在しないのではないか。考えはなんらかの形で具現化してはじめて存在するのではないか。そしてそのときはじめて、「なにかよく考えている人」も存在を許されるのではないか。

そんなことを考えながら、考えているあいだやっぱり私はなにもしない。私が存在しない間に、いつのまにか世界ではご飯の支度ができているみたいだ。ああ本当に、私はなんの役にも立たないな。

#エッセイ #随筆 #考えること #文トレ #テキスト

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