見出し画像

仕事を辞めることにした。はたらくことを求めて

昨日、上司に「仕事辞めたいです」と伝えた。人生で一番勇気を振り絞った瞬間だったかもしれない。


やりたいことを探し続けた結果、自分の気持ちに素直になった結果だった。


「はたらく」とは何だろうか。単純にお金を稼ぐだけじゃない。人間として生まれた限り、「はたらく」ということは一生続く。


社会人2年目という、未熟な私でもその現実を痛いほど痛感した。そんな今、私の人生を通して、これから「はたらく」人や今「はたらいている」人に読んでほしいことがある。


小学生

とにかく、「悪い奴」だった。工場勤務の父と看護師の母、4つ上の姉と祖父母の6人で暮らしていた。


小学校の頃の私を手っ取り早く表現すると、「一番足の速い奴」だった。大きな不自由も無く、日に日に調子に乗っていくだけの悪い奴だったと感じている。


ただ、プライドばかり高くなっていく自分に少し不安を抱いていた。自分が中心だと思っていた。


決して裕福な家庭ではないが、かと言って極端に経済状況が悪いわけでもなかった。母親は厳しくて、友達の家にお泊りすることも禁止したり、門限にもうるさかった(門限通りに帰らない私が悪いのだが)。


宿題も頑なにやらなかった。宿題忘れの名簿に毎日私の名前が書いてある。それでも母は「勉強しなさい」とは言わなかった


だから、単純にやらなかった。やらなくたって、世界の中心は自分だと思っていたから。


中学生

たった24年の人生で、ターニングポイントを挙げろと言われたら、「中学校生活」が真っ先に思い浮かぶ。何故か。


「一番足の速い奴ではなくなった」からではない。「心が急激に成長した」からだ。


つまり、プライドを少しずつ捨てていけた時間だったからだ。中学生の期間、沢山考えた。自分のこと、友達のこと、家族のこと。


考えて、発言した。自分の弱みや言いたくないことも沢山発言してきた。言う度に自分自身を覆っていた厚い皮が一枚ずつ剥がれていった。


真摯に私の気持ちと向き合ってくれた当時の先生には今でも感謝している。自分のことを話して、人とつながる。このことを学んだことは、今後の人生においても一生の宝になることは間違いない。


そうやって自分の気持ちと向き合う途中、やりたいことが見つかった。「教師になりたい」と思った。理由は勿論、先生みたいになりたかったからだ。


でも、当時の私は少々お馬鹿過ぎた。偏差値も40そこそこ。教師になると決めたにも関わらず、小学生からの癖で1年何も勉強しなかった。気づけば中3の秋。


その時に友達に誘われた塾があり、そこに入りたいと母に話を持ち掛けるが、「そんなお金はない」と一蹴された。泣きながらお願いした。


流石の母もこれには折れて、塾に通えることとなった。同じ中学のAとBの3人で通った。毎日死ぬ気で勉強した。偏差値もぐんぐん上がり、2月ごろには60だった。


AもBも共に成績が良く、塾でトップ3を飾る3人組となった。そして、志望していた公立高校に合格。父は泣いて喜んだ。


ここまで本気で何かに取り組んだのは初めてだった。AとBは市内でトップクラスの高校に合格した。


Aは今、国立大学の医学部で医者を目指している。Bは大学院へ進学し、大手自動車メーカー系列の大企業に内定をもらっている。正直、とても誇りに思う。


そんな中学生活も終わった。ちなみに、卒業式ではめちゃくちゃ泣いた。


高校生

中学とは一変して、高校生活は中々のものだった。勉強に対する意識が違うのだ。中学生で塾に通うまで、勉強というものをしてこなかった私には、はじめ、とてもキツかった。


最初の模試の順位は320人中、311位


1年生の5月くらいまで、正直吐きそうな思いをして毎日学校に通った。苦痛だった。こんなにも努力して、こんなに苦しい結果になると思ってはいなかった。しかし、その「結果」は本当の結果では無かった。


小中とサッカーをやっていた私は、高校でラグビーという選択をした。ここで出会った仲間が高校生活をグッと良くしてくれたのだ。毎日憂鬱だった学校生活が、ラグビー部に入部したことをきっかけに、華開いた。


元々足が速かったことがラグビーでも通用し、チームで活躍できる選手となった(自分で言うのもアレだけど)。毎日部活の時間が楽しくて、まさに青春時代を過ごしていた


しかし、高校生活で「自分のことを話す」機会なんてただの一度も無く、中学の頃に学んだ大切な気持ちも薄れていった


とはいえ月日は流れるもので、あっという間に受験シーズンになった。ラグビー部で精神的にも強くなれた私はここでも必死に勉強した。


高校生活最後の順位は文系全体で11位だった


自分で自分を褒めた。しかし、志望していた公立大学は見事に落ち、自宅から通学可能な他県の私立大学に入学することとなった


高校の時とはうって変わり、親には大きな迷惑をかけた気分だった。公立大学に落ちたと知った時、母は大きなため息をついた


そこで私は、「働くようになったら、学費は返すので、通わせてください」と言って、奨学金は使わず、通わせてもらうこととなった。その言葉と同時に、「大学を卒業すること」が先走り、「教師になる夢」はもう無かった


楽しかった高校生活も終わりを迎えた。卒業式は、泣けなかった。


大学生

文系大学に入学し、文系で、文学や哲学を専攻した。世界史は高校の時から好きで、同時に海外の文化にも興味を持っていた


中学生の時からUKロックが好きで聴いていたことや、ドラムを習っていたこともあり、軽音学部に入部した。


率直に言って、大学生活は最高だった。これが4年も続くのかと思うと嬉しくてたまらなかった。


勿論、勉強は怠らなかった。成績も気にした。これも自分の為であり、大学に通わせてくれている母の為でもあった


大学の友達からは、「真面目だね」と言われることもあったが、そんなことを言われる日が来るとは思いもしなかった。


中学の時に通っていた塾と、小中と通っていた近所の集会所(子どもと遊んだり勉強するところ)でアルバイトをして、やりくりしていた。


大学生生活もあっという間で、気が付けば「就活」が始まろうとしていた。確か授業中にふとこのことに気づいた。


無心で就活サイトに登録した。その時、「将来の夢」は無かった。海外で暮らしたいとか、お金持ちになって外車乗りたいとか、漠然とその程度のものだった。


気が付けば就活が解禁し、続々に企業説明会や面接が始まった。何がいいかなんて正直分からない。子どものころから不自由のない生活をしてきた私にとって、できない仕事なんてそうそうないと勝手に自信を持っていたが、いざ探せと言われるとグッと迷う。


結局、商社や物流関係など、事業範囲が広そうで年収が高そうなところだけ受けた。12社ほど受けて、内定をもらった1社に決めた。物流会社だった。正直、ここまで順調に人生を歩んできた自分にとって、こんなにも採用されることが難しいとは思わなかった。


しかし、自分的には大変満足でとてもワクワクしていた。どんな仕事をするのか、どんな人と働くのか。輝かしい未来ばかりが頭の中を支配していった


気が付けば、卒業間近。4年生はほとんど学校には通わず、卒論も正直余裕だった。ゼミの先生には、「過去20年で一番良い論文たった」と言われた。「当たり前だ」と思った自分が好きな「PUNK」について書いたから苦も無く、楽しく進められたからだ。


単位も取り終えて、大学は卒業した。卒業式はサッパリしすぎていて正直あまり記憶にない。


就職

2年前の4月、社会人になった。不安や緊張もあったが、ワクワクしていた。同期は皆仲良く、ここまでイメージ通りだった。「上手くいった」そう思った。


2か月ほどの研修を終え、配属された部署は、輸出を取り扱う社内でもトップクラスに忙しい部署だった。大所帯で売上もかなりある部署であった為、ここに配属される新入社員は期待されているんだと感じた。やる気に満ち溢れていた


残業が多い分収入は申し分なかった。大学に入る際に約束したように、親には毎月5万円近く返済していた。これは今も続けている。


ただ、そのやる気も長くは続かなかった。業務量が多いことは言わずもがな、それにともなって関係各所からの問い合わせや、板挟みも多く手が回らないことが多くあった。新入社員にして深夜2時に帰ったこともあった


正直、限界だった。辛くてたまらなかった。働いて一年も経たない1月上旬、通勤途中で急に身体が動かなくなった。上司に電話して、休むこととなった。


もしやと思い、その日、その足で病院を予約し、診察を受けた。「うつ病」だと診断された。驚きはしなかった。そうだろうと思っていた節もあったからだ。


医師から診断書をもらい、会社に提出した。休職することになったのだ。不甲斐なかった。これまでの人生を振り返った時、これほどまで辛い時間は無かった。色々な人に申し訳なくなった。


うつ病というものは、青天の霹靂のようなもので、いきなり地獄に堕ちたような気分になる。これがいきなりくる。死にたいなんて人生で一度も思ったことなんてなかったが、「死んだら楽になるのだろうか」と考えたことはあった。


これくらい心の病は深刻なものだった。休職中、転職も考えたが、復帰することに決めた。理由は沢山あったが、自分で決めた道をそう簡単に降りたくなかったことや、親の目を気にしたこと、漠然と辞めることへの不安等があった。


徐々に心を落ち着かせ、その年の5月、4か月ぶりに復職した。社内の人間は「お帰り」といった感じで、温かく迎え入れてくれた。しかし、その温かさが続いたのもものの1週間くらいだった。


「残業なし」と指示を出されていた期間もまだ残っている最中、普通に残業をした。22時や23時まで働いた。


正直なところ、うつ病は完治していなかった。とにかく気分の浮き沈みが激しく、やりたいと思っていた仕事が、ひたすらにやりたくない仕事に変わっていった。2年目ということもあって、業務も変わり、それと同時に関わる人間も変わった。


その人間関係もまた悪かった。話しかけても「忙しいので後にしてくれますか」と目も合わさずに言われたり、理不尽に叱責され続けることもあった。これまでの人生において、人間関係で大きくつまずいたことの無い私が、盛大にこけた


そんな時、本当にに自分がしたいことは何か考えた。真剣に考えた。正直、考えて出た答えが、退職の口実になれば良いとさえ思った。


そんなことを考えていたある日、出社してすぐ、気分が悪くなり、休むこととなった。うつ病が再発した。本当は、こんな公の場で言いたくないが、これが現実だ。


うつ病だからと言って、見た目は変わらない。仕事中はいつもの私だ。けど、それは本当の私ではない。自分に自分で嘘をつき続けること、つまり、我慢し続けることに疲れてしまった


そんな流れで、ついに上司を呼び出し、退職の旨を伝えた。一概に会社が悪いとは言いたくなく、勿論、私にもやりたいことの候補は山ほどあったので、なるべく丸くまとめて話した。上司も納得してくれた。


肩の荷が下りるとはこういう事か。初めての感覚だった。


はたらくってなんだ


まだ、正式に辞める日は決まっていない。これからどう生きるかも未定だ。親にだって返済していない学費は山ほど残っているし、不安も沢山ありすぎる


何なら誰もこのことを知らない。これを読んでいるあなたが今知ることになると思う。


でも、そんなことを考えていたって人は幸福には慣れないことは証明された。無理に自分自身を気づ付ける必要はない。「自分はダメな奴」なんて言ってはいけない気がする。他人に悪口を言うのも、自分に悪口を言うのも同じだ。結局言われた側は辛いのだ。それが、精神状況に出てきちゃう。


本当の自分でいたいから、辞める決心をした。仕事なんて嫌なら辞めれば良いと思っている人も多いかもしれないが、NOというのはやはり勇気がいる。苦手だ。


今、自分自身が成長していることが手に取るようにわかる。何にだってなれる気がする。


はたらくってなんだろう。その先に何があるのかはわからないが、間違いなく「はたらく」ことは私の人生を突き動かし続けることになる。誰にだってそうかもしれない。


はたらくことで、失うものが沢山あるのも事実だ。けど、はたらいて得たものは、無駄にはならない気がする。無駄にしたくないだけかもしれない。


各々が「はたらく」について考えてみたとき、その答えが自分の望む姿であってほしい。少なくとも私はそうなりたい。


ここで私が愛してやまないoasisの"Whatever"という曲の歌詞を抜粋して終わりにしたい。


I'm free to be whatever I
Whatever I choose
And I'll sing the blues if I want

俺は自由さ どうなろうと
何を選ぼうと
歌いたきゃブルースだって歌うぜ

I'm free to say whatever I
Whatever I like
If it's wrong or right it's alright

何を言おうと 俺は自由だ
何が好きだろうと
間違ってようが正しかろうがなんだっていい

Whatever you do
Whatever you say
Yeah I know it's alright

お前が何をしようと
お前が何を言おうと
なんだっていいさ


これからもよろしく。







この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?