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中等遊民に救いはあるか

noteに新規登録する際、名前を出すか匿名にするか少し考えた。

私はSNS中毒気味の中等遊民(つまり金はあまりないが時間はある。)で、TwitterやFacebookなど主たるSNSにはほぼ全てアカウントを持っており、それらの更新や管理などの作業が今や自分の生活の大部分を占めている。基本的に自分が誰であるかを明確にしているのは、特に道義心があるからではなく、匿名では承認欲求が満たされないという理由に落ち着く。ではSNSと関わることで自分の承認欲求が満たされているかと言うと全くそんなことはなく、むしろ、日々、絶望している。何を言ってもやっても貰えない「いいね」、何年やっても増えないフォロワ、やればやるほど世間からつまはじきにされていくようで毎日が本当にしんどい。やめてしまえばどんなに楽かと思うが、それでもやめられないのがドラッグというものだ。

SNSでは基本、言いたいことは言ってない。友人や世間に承認されることがモチベーションだから、発信する内容はどうしても受け手を意識したものとなる。これを言ったら「いいね」をもらえるだろう。とか、この映像を見せたら海外からフォロワがつくだろう。みたいなことばかり想定して記事を投稿している。つまり本名を使いながらにして、ある種の「フェイク情報」を垂れ流しているというわけだ。

新しくトライすることになったnoteも、承認欲求がモチベーションであることには違いないが、ふと、誰にどう思われるかを気にせずに言いたいことを言うスペースが、ひとつぐらいあってもよいのではないかと思った。化粧した文章だって、結局誰も読んでくれてないのが実情なんだから、すっぴんで何を話したところで誰も何も気にしまい。

そんなわけでこのnoteは本名を隠し、ハンドルネームで始めることにした。したがって、自分が誰であるかを簡単に特定できる内容の記事は書けないことになる。これが執筆にどう影響するかはやってみないとちょっとわからない。

匿名性にそこまで強固にこだわることもない。そもそも身元を隠す必要性は低く、少し読めば、私のことを知っている友人などには、あ、これアイツだ。とわかってしまうぐらいのスタンスで問題ないと思う。たぶんハンドルネームとプロフィールだけでわかる人もいると思う。

何を記事にしていくか、全く決めていない。見返りを気にせず言いたいことを言う?果たして自分に言いたいことがあるのかもわからない。でもまあ、こうやって画面に向かってタイプしているこの時間、何となくこれ(書くこと)がある種の「救い」であるような感じを覚えている。

「中等遊民」という言葉は私が作った「自分語」だから説明をしないと何だかよくわからないと思う。内田樹さんがTwitterで、一定の財産を持っていて、働かずに生活していける人たちのことを「高等遊民」と呼んでいた。必ずしも大金持ちというわけではなく、つつましく生活すれば働かなくてもどうにかやっていける人たちのことを指すようで、わりと自分の置かれた境遇に近いと感じた。しかし自分自身を「高等」と呼ぶのはおこがましく、かと言って「低級」と蔑むほど荒んだ生活を送っているわけでもないので、真ん中辺を選び、「自分は中等遊民である。」と自らをカテゴライズした。


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