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自由の衝突を、社会は契約によって解決する。

法とは何か。政治とは何か。

個人の権利を守るためのものである。すなわち、自由、財産、生命の保護を保証するものである。

もし法がなければ、ホッブズが述べたように、「万人の万人に対する闘争状態」に陥ることだろう。それは、無秩序と恐怖である。

無制限な自由は常に衝突するものである。他人の権利を侵害する自由を許してしまえば、自己の権利を守る自由が損なわれる。極端な例を挙げると、殺す自由と生きる自由が衝突するのだ。したがって、そのような状態では、他人から危害を加えられる可能性に常に怯えながら生きねばならない。まさに戦争状態だ。

だから、自己の安全を守るために、社会と契約を交わすのだ。他者の権利を侵害しないことを約束して、自己の権利が侵害されないことを保証してもらうのである。どのような権利を保証するのか定めたのが、法律なのである。法律を守ることに合意して、法律によって守られることを保証してもらうのである。

法律は自由を制限するためにあるのではない。自由を守るためにあるのだ。法によって縛られているのではない。法によって守られているのである。本来は。

歴史的には、絶対君主制のもとで恣意的な法がつくられたこともあるかもしれないが、現代においてはそうならないような仕組みになっているはずだ。法律は社会の福利と安全のために制定されているはずだし、制定されるべきだ。

法が罰を定めるのは、違法行為、すなわち他者の権利を侵害する行為を未然に防ぐため、その抑止力となるためである。罰せられるから、人はあえて法を犯そうとはしない。それによって平和が保たれるのである。個人の権利と特権が維持されるのである。

法を破るなら、それはすなわち互いの権利を侵害しないという合意を破棄するのであり、自己の権利が侵害されることを許容することになる。言い換えれば、他者の権利を侵害するということは、自己の権利が侵害されるのを認めるということなのだ。

人を殺すなら、自分が殺されても文句は言えないだろう。盗むのなら、盗まれる。人を騙せば、自分も騙される。人を差別するのなら、自分も同じように差別されることを許すのだ。憎めば、憎まれる。

それはなんと無秩序な世界だろう。どれだけの恐怖であふれかえるだろう。

そのような戦争状態を克服し、平和を希求するために、法律が存在するのである。平和と協調を望んでいるわたしたちは、自己の権利を守るために、法にそれを保証してもらうために、法の下で、他人の権利を守って生活するのである。

原則は、自分のした行いは、最終的に必ず自分に返ってくるということである。

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