【短編小説】地球救済作戦

 巨大な月の前にある一隻の宇宙船。それは地球を救う為の希望の星。成功すれば、人類史に残る大偉業。しかし失敗すれば、人類史なんてもの自体なくなるし、そもそも地球がなくなる。そして今、船内にいる二人の男の頭には、失敗の二文字が渦巻いていた。
「もう終わりだ。地球に残した家族も、ローンを組んで買ったマイホームも、地球も俺も、すべて終わりだ……」
 沈痛な面持ちで口にするのは、伊澤一。この宇宙船の飛行士であり、地球の救世主である。いつもは、見事にセンターで分けられている黒髪だが、今は緊張と暖房が生み出す脂汗のせいでおでこにペッタリと張り付き、センターどころの騒ぎじゃない。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。しかし、このタイミングで動かなくなります? 普通」
 と、緊張感の無い声を発するのは、椎名龍。伊澤と同じく飛行士であり、同じく地球の救世主だ。
「普通かどうかは知らんよ。あー。なんてことだ! すべて終わりだ! くそっ、クソッ!」
 伊澤は喚き散らしながら自分のもみあげを執拗に触った。
「まぁ、落ち着いてくださいよ。伊澤さん。ね」
 と椎名は伊澤をなだめながら、自分は染めたばかりの髪の毛を鏡でチェックしている。
「あのね、君。こんな状況で落ち着いている方が不自然だよ。つまりね、君は今とても不自然なんだ!」
 怒鳴るように吐き捨て、伊澤は泣き出した。かなり情緒が不安定だが無理もない。ことがことなのだ。
「不自然って言われても。まぁ、確かに僕たちは大変な状況に陥ってますよ。宇宙船の燃料が足りないって普通ありえませんからね。映画なんかじゃ絶対起きない話ですよ。でも、実際に起きてますから。しゃあないですよ。伊澤さん」
「じゃあ、どうするのさ!」
 伊澤は左手で近くの取っ手を持ち、右手で椎名の襟元をつかみながら、どうすんの、どうすんのと繰り返し言う。椎名の頭が前後に揺れた。
「ま、あ、ま、あ、ちょっ、と、やめ、て、くだ、さい」
 椎名は力で解決することを好まない。現に、こんなに頭を乱暴に揺らされても、言葉でなんとかしようとしている。
「ほら、ほら、地、球が、滅亡、する前、に、まず、僕が、死んじゃ、いますっ、て」
 と、必死の説得を試みるが、伊澤の椎名を揺らす手は、むしろ激しさを帯びていく。
「ぅ、ぅぁ」
 椎名が囁くように声を漏らした。しかし、まだ伊澤は椎名の頭を振っている。右は真っ赤、左は真っ白の頭髪をたくわえた椎名の頭が、どし、と重くなった。急いで手を離すと椎名は人形のように動かないまま、ふわふわと浮かんでいった。
「おい、椎名君?」
 椎名がまるで意識を失ったように、遠くにゆっくりと飛んでいってしまう。伊澤は少なからず焦った。心の中で色々と考えた。気絶だろうか。長旅で疲れたのかもしれないな。もしかして俺のせいか? いや、それは無いだろう? 別に軽く揺らしていただけであって、別に大したことはしてないじゃないか。元々体調が悪かったんだろう。うん、きっとそうだろう。
 そんな、短いながらも重要な脳内会議が終わって、やっと一言、
「おい椎名君、体調が悪いならいってくれよ」
 と発した。もちろん返事はない。とりあえず椎名の所に向かい、また声をかける。
「おい、おい」
 軽く揺らしてみるが、全く反応が無い。
「お、おい。まじかよ、悪い冗談はよしてくれよ……」
 伊澤は、なんと言っても責任感の強い男だ。横暴さも、不安定な情緒もすべて、強い責任感の裏返しなのだ。
 額の汗を拭って、深呼吸をする。その後、伊澤はしばらくなにも喋らずに虚空を見つめてたが、ふと我に返って、
「いやいや、まずは脈を計らないと」
 と独り言を呟く。二人でも心細いのに、一人が気絶、もしくは……
 なんて最悪の事態を考えそうになったので、すぐさま考えるのをやめた。伊澤はこういう時にすぐ無心になれる。一つの才能だ。
 伊澤は、椎名の手首に指を当て脈の確認をする。無心になった彼にとって、椎名の生死を判断する重要なこの作業も、朝の歯磨きと同じようにこなせた。まもなく、一定のリズムで送られてくる血液の鼓動を感じ、ほっとする。
「よし、取り敢えず死んじゃいないな」
 ひとまず安心して額の汗を拭いた。そして椎名の意識が戻ることに期待して、身体を揺らす。かなり軽くだ。すると、
「ふふっ」
 と声がする。椎名だろうか?
「ふはははっ」
 今度は腹を抱えながら口を大きく開け、間違いなく椎名が笑いだす。
「いやぁ、焦ってましたね。伊澤さん」
 椎名が得意げに話しだした。それを、伊澤は冷静に聞く。とはいっても、ただの冷静ではない。嵐が来る前の、もしくは獲物を仕留める為に茂みに身を隠す虎のような、殺気を帯びた冷静さだ。しかし、伊澤はこの心の火山の噴火をまだ耐えることができる。先ほど感情的になって椎名の首を振りすぎたことの反省からだ。
「どうっすか? スペースドッキリですよ。この状況で、まさかドッキリを仕掛けられるとは思わなかったでしょ。いい思い出になりましたね。お互い」
 しかし、そんな簡単に人は変わらないのだ。伊澤は反省なんて忘れて怒りをあらわにした。
「おめでたいのは髪の色だけにしとけよ! くそガキが!」
 椎名に飛びつくために伊澤は壁を蹴った。今の伊澤は、地球のことも燃料のことも頭に無い。あるのは、死ね椎名という感情だけだ。
「貴様、生きては返さん!」
 全ての四肢を満開に開き、椎名に向かう。なぜそんな格好なのかと問えば、とりあえず体のどこかが当たればいいと考えたからだ。とにかく、当たればそれなりに痛いだろうし、一度椎名と接触できれば、あとはどうとでもなる。首でも締めてやればいいのだ。
 しかし、残念なことに、全く速度が出ていない。其の実、歩くよりも遅いのだ。先ほど壁を蹴った時、少し足を滑らせたのが原因である。伊澤は往々にして大事な所で恥をかく癖がある。
 ゆっくりと宇宙船内を、大の字のポーズをした伊澤が浮遊している。こんな状態で椎名にぶつかったとして、なんになるだろうか。今からでも近くの手すりにつかまって、再度突撃をするべきじゃないか? しかし、今更どうすることもしなかった。伊澤は目を閉じて静かに、ただ静かにしている。
「伊澤さん、日が暮れちゃいますよ」
 椎名の言葉を聞き、ついに涙を流した。正確には、涙が目頭と目尻に溜まり、ある程度の大きさになると、その目から離れ、宇宙特有の丸い水玉になった。伊澤は、宇宙では涙を流すというより、涙が溜まるって感じなのか、不思議だな、と知的好奇心を刺激されていた。もっと宇宙空間の涙について考えようと思ったのだが、それどころではないのでしかたなく頭の隅に追いやる。今、考えるべきは、椎名という男のスペースドッキリについてなのだ。ここを理解しないことには、なにも話は進まない。まず、なぜ椎名という男はこんなに呑気なのだろうか? 宇宙人の本拠地、月を破壊する使命を果たすことができず、地球を滅亡させてしまうかもしれない、という状況でなぜ、死んじゃったドッキリをするのだろうか? なぜ、それをスペースドッキリというのだろう? 考えれば考えるほど謎は増え、一つも理解することができず、また伊澤は涙する。連射式のシャボン玉機の如く。
「伊澤さん? 涙なんか流してどうしたんですか? 泣いてもなにも解決しないですよ?」
 と言われ、伊澤は目の周りにくっついている涙を手で払い、口を開いた。
「いいかい、椎名君。さっき君は日が暮れちゃうと言ったけども、宇宙にはさ、日が昇るも暮れるも無いんだよ」
「あっ、確かに。というか、今更その話ですか?」
 と、椎名は神経を逆撫でするような発言をするが伊澤は無視をして続ける。
「あとね、この涙は流れてないよ。宇宙だから流れずに溜まるんだよ」
「それも確かに」
「ほら、見てて」
 伊澤は、優しい笑顔になり椎名をじっと見つめた。目から涙が溢れ出す。そして小さな水玉がまた宇宙船内を満たしていく。
「笑いながら泣いたりして、もしかして伊澤さん、変な人なんですか?」
「かもしれないな」
 椎名の無神経さに、伊澤は疲れ果ててしまっていた。そしてやかましさと引き換えに、やる気を失った。浮遊し、微笑みながら涙を生み出すこと以外なにもしたくない。
「伊澤さんが、変な人だったとは。じゃあ、頼ってられないなぁ。よし、俺が頑張るか!」
 なぜか、伊澤の無気力とは裏腹に、椎名のやる気は高まっていた。そもそも、椎名という男は危機感が無いだけで、モチベーションは高いのだが。
 椎名はまず、浮遊する伊澤をどかし、状況を再度確認する為に窓から外を見た。そのままでは暗くてなにも見えないので、備え付けのライトで照らしながら。相も変らず巨大な穴が見える。
 この巨大な穴は、宇宙人が月の内面に作った基地への門だ。何個かある門の中でも、一番小さい所らしいのだが、それでもかなりの大きい。今にも吸い込まれてしまいそうだ。まぁ、本当に吸い込んでくれたほうが、燃料切れの宇宙船にとっては都合がいいのだが。
「このライトじゃ、中がどうなってるのかまでは分からんな。うーん、どうするか。地球を救わにゃならんのに」
 何度か照らし方を変えても特に状況は変わらない。いつの間にか、ライトの光でどこまで照らせるかの遊びに変わった頃、椎名はこの任務のことをあらためて思い返していた。月の内部基地で、爆弾のスイッチを起動するという重要な任務のことを。本当なら今頃は月の中で、慌てふためく宇宙人たちをしりめに、持ってきた爆弾を爆発させているはずだったのに。結局したことといえばドッキリを仕掛けて伊澤が変な奴だと分かったくらいで、なんと無駄な時間を過ごしたのだろう。と椎名は思うのだった。あと、地球に戻っていちご大福が食べたいとかも思うのだった。
「とりあえず、もう一回宇宙船を起動させてみるか」
 ライトを消して壁にかけてから、浮遊している伊澤をどかし、椎名は操縦席に座った。そして起動ボタンを押す。なにも反応が無い。もう一度押してみる。また反応が無い。しかたないので連打すると、宇宙船が振動しはじめた。
「おっ! 来た来た!」
 他人事のように椎名は声を出した。すみっこに追いやられた伊澤もさすがに目を開き、
「んっ! なんだ?」
 と叫ぶように言った。どうやら、宇宙船が動きだしたのだ。
「おい、椎名! どうやったんだ!」
「分かりません、ただ、起動スイッチを押したら動いたんですよ。発進します!」
「おい、ちょっとま……」
 伊澤が言い終わる前に、椎名は宇宙船を発進させた。それと同時に、宇宙船内の電気が消える。そして、真っ暗な月の大穴に宇宙船は消えていった。
 が、ものの数秒で宇宙船のエンジンは止まった。
「おい、椎名。いきなり発進するな! あと、止まってるぞ」
「止まりましたね」
 どうやら、今のが宇宙船に残された最後の力だったらしい。
「止まりましたね。じゃないよ! 電気も全部消えたじゃないか!」
「ですね」
「もう!」
 伊澤はなにを言っても無駄だと判断し、壁にかかっているライトを探しはじめた。椎名は操縦席につけられたライトを使って、すぐに点灯させる。伊澤はその光を頼りにもう一つあるライトを手に取り、二人とも無事ライトを手にした。
「このライト、すっごい明るいですよね。うちにも欲しいな」
 と、椎名はライトをいじりながら言う。
「なんというか、君はほんと状況が分かってないよね」
 伊澤は宇宙船の発進で気持ちに区切りがついたのか、もう完全に諦めたのか、こんな椎名の発言にもあまり食ってかからない。そんなことよりも、外の状況が気になっている伊澤は、確認の為に、ライトで窓から外を照らす。
「うわっ」
 見るや、すぐさまライトの電源を消した。
「どうしたんですか?」
 と伊澤を気にかけながらも、椎名は宇宙船が動いた理由を考えるのに夢中だ。あちこちを触って回っている。
「大変なことになったぞ。椎名」
「今更どうしたんすか。燃料切れの時点でもう大変ですよ」
「さらに、大変になったってことだよ」
 伊澤の体の震えが、ライトをカタカタ言わせている。
「さらにって、なんですか?」
 伊澤は唾を飲み込み、一言、
「すぐそこに宇宙人がいる」
 そう言った。椎名の反応は確認せずに、喋り続ける。
「今、この宇宙船は大穴の中まで進んだみたいだ。っで、壁を見たんだが、そこに宇宙人がいる。バイクのような物に乗ってた。目視できたのは一人。あー、俺たち、気づかれてんだろうなー」
 ガタガタと震えが止まらない伊澤は、また目に涙を溜めた。
「あー、怖いよぉ」
 と言いながら、また水玉が生み出される。伊澤がちらりと椎名のほうを見ると、椎名は結構普通の顔をして、涙を目で追っているようだった。
「あっ、もしかして」
 直後、閃いたように椎名が言う。
「この宇宙船が少しだけ動いたのって、内部でなにかが起こったわけじゃないですか」
「あぁ、ああ、そうかもな」
 伊澤は泣きながらも律儀に返事をして涙を拭った。
「いや、言いたいことはですね」
 椎名は取り出したタオルで、水玉の処理をしながら言った。
「宇宙空間でも、涙は流れるでいいんじゃないですか? なぜなら、見えない内部で、涙は涙腺を流れて出てくるからです。いやー、絶対そうだ」
 なぜ、椎名は、今そんなことを考えているのだろうか? そんな疑問の種は、すぐに殺意に変わった。
「今! そんなこと! 関係ないだろ!!」
 満足げな表情を浮かべるこいつの息の根を止めてやると、伊澤は体勢を整えた。がその時、宇宙船の窓に何かがぶつかる音がする。
「なんだよ! うるせぇな!」
 伊澤が音のするほうにライトを向けると、椎名も伊澤も固まってしまった。蛇に睨まれたカエルのように。
 宇宙人が、窓を叩いているのだ。

 宇宙人の形はほとんど人間と同じだ。腕が二本と足が二本。それを胴体と腰が繋ぎ、胴体の上に直接頭が乗っかっている。顔はずいぶん、地球人とは違う。まず目の部分が人間よりも下の位置、つまり顔の真ん中あたりだ。そこに二つ並んでついている。色は緑でむき出し。ビー玉を窪みにはめ込んだ見た目だ。鼻や口は無い。がところどころに穴が空いているので、それが口や鼻の役割を果たしているのかもしれない。頭髪は全くなく代わりに無数の傘のような物が飛び出している。肌の色は、多分、灰色だと思う。正直、暗くてよく見えない。今、分かる宇宙人の情報はそれくらいだ。
「おい、椎名君もライトを消してくれ」
 囁くように伊澤が言う。もっとも、宇宙船の外にいる宇宙人に声が届く心配は無いのだが、念の為小さな声で喋る。
 椎名はライトを消した。なにも返事が無いが、もしかして宇宙人を目撃して動揺してるのだろうか。
「椎名君。まず、なにが出来るか考えよう」
 伊澤は、自分を落ちつかせる意味も込めて、そう椎名に語りかける。
「ほら、俺達、まだこの宇宙船の中を全然見てないじゃない。だから、なにか太刀打ち出来るものを探そう」
 実際に、二人はこの宇宙船にはなにがあるのかを全然知らない。地球の滅亡が目前に迫っていた為に、急ピッチで話が進んだのが理由だ。この宇宙船に乗り込む際に聞いた説明は、乗ってれば自動で目的地に着くということと、なにかあったら、中に置いてある分厚い説明書を読む、ということだけだった。
「椎名君、どうしたの? とりあえずさ、説明書を読んで、なにをできるか探そうよ」
 椎名は伊澤の声に全く反応しない。伊澤は少しだけ頭に来ていたが、言い合いになってもしょうがないので、一人説明書を持って、窓のない部屋に移動した。
 その場に残った椎名は、ボソリと呟く。
「宇宙人、カッケェ……」
 
「ったく、宇宙人ってあんな見た目なのかよ」
 一方伊澤は、そんな独り言をしながら、乱暴に説明書をめくっている。かなりはっきりと独り言を喋っているが、昔からそうなのだ。伊澤は一人になると凄い喋る。喋りながらも手はハキハキ動いていて、説明書はどんどんめくられていた。ちゃんと内容に目を通してるのか不安になる勢いだが、この本の半分以上は、規約関連なので、もちろん読み飛ばしている。
「なんだよ、まともなこと全然書いてねぇじゃんか」
 読み飛ばしているが、一ページ一ページ、ちゃんとめくる。何か重要な情報を見逃さないように。
「あー! 日が暮れちまうよ!」

 窓を叩いている。強めに叩いている。そうじゃないと向こう側に伝わらない。何度も叩く。やっと、向こうも返事をするように窓を叩いてきた。椎名は、思わずライトで外を照らし、宇宙人を確認した。
 その肌は、光の当て方で色を変えた。まるでオパールのような虹色。しかし鉱石のように硬くは無いだろう。見るからに柔軟性を持っている。目は合っているのだろうか。椎名はその緑色のビー玉をじっと見ているが、よく分からない。試しに、軽く手を振って挨拶をしてみた。すると、宇宙人も同じ動きをした。どうやらあの目玉? でちゃんと見えているようだ。宇宙人と手を振り合うという挨拶をできたことで、気持ちが高ぶり息が荒くなる。もう一度手を振る。するとまた手を振ってくる。宇宙人の顔を見ても、表情は読み取れないが、頭に生えた無数の傘のようなものが少しだけ開き、黄色に変化していた。その姿を見て椎名は、ぼんやりと電球を思い浮かべる。
 無数の傘たちが開くと、宇宙人の頭は、丸みを帯びる。閉じているときは、とても無機質で刺々しい。小さな傘や、取れかけた傘が見受けられるから、もしかすると生え変わったりするのだろうか。髪の毛みたいだな。
 という具合に、じっと宇宙人を観察していると、今度は向こうから手を振ってきた。椎名は手を振り返しながら、その手をじっと見る。地球人とは違い、手首から指が直接生えている。つまり手の平がない。指の本数は六本あり、関節は何個だか分からないがとにかく多い。その揺れる指を見る限り、関節はあらゆる方向に曲がるようだ。椎名はその指に魅入ってしまい、手を振るのが止まる。宇宙人も手を振るのをやめた。宇宙人はその手を椎名の方に近づけてくる。椎名は一瞬、身構えたが、なにも起きない。どうやら、宇宙人は椎名が見やすいように手を近づけているようだった。六本の指を等間隔に広げたり、どの方向にどこまでも曲がる指をぐるぐるさせてみたり、なにやら記号のような形を作ったりと、様々な手の使い方を見させてくれた。
 椎名は、夢中になって宇宙人との交流を続けた。今度は自分の番と言わんばかりに、自らの手を窓に近づけ、さまざまに動かしてみる。といっても、宇宙人ほど達者には動かないので、せいぜいジャンケンのグーチョキパーをするくらいだった。宇宙人は、身を乗り出して、意外にもじっと見ているようだ。目玉の向いている方向は分からないが、少し身を乗り出したということは見ているのだろう。頭はより黄色くなり、傘は満開に開いた。それはとても愛らしい形をしている。
 椎名の指の妙技は、数が少ない。すぐに打つ手がなくなった。しかたないので、何度もグーチョキパーを繰り出していると、宇宙人が真似を始めた。手を出し、指を全て丸めてグー、二本だけ伸ばしてチョキ、全ての指を開いて、パー。パーに関しては紙というより、イソギンチャクみたいで到底石に勝てそうもないのだが、なんとか真似をしてくれたことが嬉しいと椎名は鼻の穴を広げた。
 もしかして、もしかすると、宇宙人とこのままじゃんけんが、できるのではないだろうか? 椎名はそんなことを考える。もうすでに地球の滅亡のことなどすっかり忘れているようで、すぐさまルールを教えることにした。とりあえず、自分一人でじゃんけんをするのを見せる。そして、負けたほうの手を窓から見えない位置に持っていく。というのを何度か繰り返した。宇宙人は、頭を緑色にしながらじっと見ている。ある程度いいだろうと、椎名が勝手に判断したところで、一度リズムをつけてから、チョキを出す。宇宙人は突然の行動に驚き、体をビクつかせた。みるみる頭が赤色になっていく。
「え、ちょっと何?」
 椎名は思わず口にした。なんとなく危険な雰囲気。赤色はたしか警告色とかいわれてるよな。なんてことをいろいろ考えた。うろ覚えだが、だいたいこういう時には、目を逸らしてはいけない。というのを聞いたことがある気がしたので、静かに宇宙人の緑色をした目を見つめた。ただでさえ張り詰めている宇宙の空気がさらに椎名の身体を締め上げる。唾すら飲み込めぬほどに。表情が分からないのがとても怖い。椎名は、宇宙人と出会って始めて恐怖を感じた。さっきまで宇宙人と自分のあいだで行われていたことが本当に意思疎通になっていたのだろうか? 研究者が動物の行動を観察するように、地球人の俺の反応を観察していたんじゃないだろうか? いや、いまさらなにを思っても無駄だ。相手の反応を伺うしかない。右手のチョキが震える。
 疑心と警戒と後悔と諦めが順番に顔を出す無限とも思える時間の中で、宇宙人の赤色の頭が徐々に灰色に戻っていった。そして次第に黄色、次に緑の点滅に色を変えた。それはなんとなく愉快で、敵意が無いことを訴えているように見えた。椎名は警戒しながらも見惚れる。宇宙人は左手を出すと、六本の指全てを開き、イソギンチャクを出した。そして、手を椎名の見えない位置まで隠した。頭の色が黄色くなる。次に、リズムをつけてからグーを出した。椎名はそれを見て、ゆっくりとパーを出してみる。宇宙人は、そのイソギンチャクを僕の見えない位置まで持っていく。椎名は少しにやけ、小さな声で次の試合を始めた。

 ぶつくさ言いながら伊澤はページをめくる。この船の仕様の欄に来てはいるが、専門的な用語が多くよく分からない。ただ、分からないながらもなんとなく分かって来たことがある。それは、この船がかなりギリギリの資源で作られているということだった。説明書のいたるところに、使い過ぎ厳禁! と書かれ、さらには、この船を作り上げる際の苦労をつづった文章が恩着せがましく載っていた。よく見てみれば、この紙も材質が悪い。伊澤の手汗ですでに破れてしまいそうになっている。
「まぁ、切羽も詰まるわな、そりゃあ」
 と、この宇宙船が作られるまでの地球の様子を思い出していた。

 地球はここ六日のあいだ、石の塊のような物に太陽の光を遮断され続けていた。
 初めて巨大な石が現れてから二十六時間後に、巨大な石は放射能と電波を発していることが分かった。そしてその周期が、月の周期と同期したり、反応しあっていることもすぐに判明した。
 その二十時間後には、石の内部に、生物が住んでいることが判明する。
 八時間後、巨大な石から強力な磁場が発生し、ヨーロッパの鉄やらニッケルやらコバルトを奪っていった。いとも簡単に一つの都市が壊滅を迎える。この事件後、あの巨大な石は地球を滅ぼすことが目的なんだと、人類みながなんとなく理解しはじめ、混乱が始まった。
 そして地球は兵器を使用し、巨大な石を撤退、場合によっては破壊を試みるのだが全く効果がなく、地球は絶望の色に包まれた。ここまでが石が現れて四日目の朝の話である。
 地球人の選択肢は少なかった。そのまま滅ぶか、滅ぼすか。そんな切羽詰まった人間達の賢明な調査で、巨大な石を操作しているのは、月の住民らしいことが判明する。巨大な石は月から出る信号を受信しながら地球と太陽のあいだをぐるぐると回っていたのだ。
 つまり、月を破壊することができれば、石は停止し、地球は救われる。そう結論づけられた。その破壊の為に、爆弾を積んだ宇宙船を作ることを決定し、地球上のあらゆる資源が集められた。
 しかし、人類の混乱と、巨大な石の破壊行為のせいで、資源集めは熾烈を極め、やっとの思いで、宇宙船を飛ばせるくらいの燃料が集まったのだ。ありとあらゆる情報網を使ったり、なかば強引に回収するさまは、緊迫した状況を如実にあらわしていた。
「まあ、必死に集めてたけど、足りてないよ。燃料」
 伊澤はつぶやき、またページをめくる。

 盛り上がってはいない。淡々と試合が行われている。ただ、なぜだろう。運なのか、いや、これは実力なのだろう。宇宙人のほうが倍の勝ち星を上げている。椎名は、悔しいというよりは、なんとも納得しがたい気持ちがへの字口にあらわれていた。ちらりと宇宙人の顔を見てみると、黄色が点滅して傘が開いたり閉じたりしている。なんとなく笑われている気がした。椎名の負けが八回続いた所で二人のじゃんけん大会は終わった。戦いで凝り固まった体をほぐす為にと椎名は伸びをする。宇宙人のほうも体を動かしている。どうやら、伸びという行為は宇宙人にも存在するらしい。
 お互いが体をほぐし終わると、なんとなく気まずさを感じ、手持ち無沙汰でライトをいじったりしてみた。椎名は、やることがなくなったな、と思った。
「あー」
 呼吸にたまたま音が乗ったくらいの声が出た。気が緩んだのだろう。ただ、声が出たところで誰にも聞こえない。伊澤は別の部屋にいるし、宇宙人はガラスの向こうだ。
 ふと、宇宙人はどんな声なのかが気になった。そもそも喋ったりするのだろうか? 宇宙人同士はテレパシーだけで会話したりするのかな。教えてもらえば、俺もテレパシーを使えるようになるかも。
 もう宇宙人とやることがなくなったと思っていたが、よく考えてみると違うのだ。やることがなくなったわけじゃなく、ガラス越しにやることが無い、というのが正しいみたいだ。もはや、ガラス越しなどありえない。宇宙人をこの宇宙船の中に招き入れなくてはならない。でも、それは危険じゃないだろうか? さすがの椎名でも、迷いが生まれた。とりあえず、じっと緑色のビー玉のような目を見つめてみる。恥ずかしいのか、なんなのか、宇宙人の頭が桃色になる。
 宇宙空間から宇宙船に乗り込むためには、まず、空気圧を調整する為の部屋に入り、そこで圧力を調整後、宇宙服を脱ぐという流れになる。この空気圧を調整する部屋が無いと、宇宙船の中の空気は、宇宙に逃げてしまうし、人間も宇宙の真空で弾けてしまう。では、最初から宇宙空間に住んでいるこの宇宙人はどうなのだろう? 圧力の調整中に体がおかしくなったりしないだろうか? 深海から浅瀬にやってきて内臓を破裂させてしまう不幸な魚のように。
 もし相手が魚だったら、こんな風に悩んだりしないだろう。実験的にとらえればいいだけだ。しかし、椎名はこの宇宙人に対して、もっと特別ななにかを感じていた。たった数十分のあいだに宇宙人の中の人間性を見てしまったのだ。簡単に、死んだら終わりとはいかない。
 では、自分が宇宙空間に出向くのはどうだろうか? いや、それじゃあ宇宙服がじゃまだ。宇宙人のあの肌に触れたり、あの空洞を覗き込んだり、できないじゃないか。椎名は一人で問答を繰り返す。とっくに宇宙人が忌むべき相手ということを忘れており、いかに安全に触れ合うかが彼にとって重要な問題になっていた。しかし優柔不断に悩んでいられない。心なしか窓の向こうの宇宙人も椎名の釈然としない態度に苛立ちはじめているような気がする。まぁどちらにしても、宇宙人を迎えに行かなきゃいけないか。

 ページをめくる手が止まる。やっと、使ったことが無い設備の説明が書かれたあたりまで来たのに。宇宙船が動きはじめている。いつからだろうか。読むのに集中していてすぐには気づかないでいた。もしかして燃料が手に入った、なんて考えは甘すぎて反吐が出た。伊澤は説明書を読んでいたおかげで、この事態をすぐに理解した。エンジンの燃料が切れても動く部分は限られているのだ。宇宙に出る為の部屋およびドアと、生命を維持する為の装置だ。今、読んだ限りではこの二箇所は別のバッテリーが組まれている。だからおのずと動いている場所は、そのどちらかだと目星はついた。伊澤は説明書を丁寧に放りだし部屋を出る。
「椎名! 大丈夫か!」
 先ほど椎名と宇宙人がじゃんけん大会をしていた部屋まで戻るが、気配はなにもない。侵入じゃないのか。ならば連れ去りか? しかしなぜ? が考えている暇はない。椎名が危険だ。それは伊澤にとっても大きな危機になる。とりあえず、部屋の中はさっきと寸分も変わらない。もとより、ドアが開いたということはもうすでに椎名は連れ去られてしまったのかもしれない。外を確認する為、先ほど宇宙人が顔を出した窓を嫌々覗くことにした。なにか起きるとしたら、緑目玉のあいつが関係してるに決まっているからだ。ライトで窓から宇宙を照らす。外の景色を見て伊澤は声を漏らす。
「嘘だろ、おい」
 太陽の光が注いでいた。さっきまでは、地球と巨大な石に遮られていたのだか、時間の経過で顔を覗かしたみたいだ。
 宇宙にくっきりと、二人の姿が見える。真っ白な宇宙服と、灰色の宇宙人。あの宇宙服の中は椎名だよな? それ以外考えられない。しかし、その二人の体勢は伊澤をより混乱させた。聞こえていないのは分かっているが、思わず椎名に尋ねる。
「なんで、ジャンケンなんかしてるんだ?」
 離れ離れにならないように片手を繋ぎながら、二人は試合の続きをしている。

  椎名は太陽の光に目を細めている。宇宙人はまぶたが無いせいで、顔ごとそらした。椎名は負け続きのじゃんけんを、もうそろそろやめにしよう考えているのだが、無線から歪んだ伊澤のわめき声が聞こえるので、このまま帰るのも嫌だなと思っている。宇宙船のほうを見た。窓の丸い枠いっぱいに、伊澤が泣きそうな顔でこっちを見ている。ちょうど目があった時、宇宙人に手を引かれた。向きなおすと特になにがあるわけでもない。ただ手を引っ張られただけだ。
 椎名の、宇宙人を船に連れて行きたい気持ちはより強くなっていた。もし宇宙人の体に異変が起きればすぐに宇宙に開放してやればいいだけだと自分に言い聞かせて、宇宙人の手を引く。その最中、二人はなにも言わず見つめ合う時間があった。
 宇宙服と宇宙船をつなぐ紐を伝いながら戻ろうとしたが、宇宙人が乗っていたバイクのような物に乗せられた。タイヤは無く、代わりに岩が無理やりついている。というより、岩の形に合わせてサドルや車体を作って、組み合わせているようだ。動き出す時、岩の中から光が漏れ出す。そして、あっという間に宇宙船に着いた。そのあいだ、丸窓越しの伊澤はずっと二人を目で追っていた。
 宇宙船の入り口はミニチュアの玩具みたいに現実味がない。丸型の扉についたハンドルを何度も回すと扉が開く。中は殺風景な白い部屋だ。詰めれば四人は入るだろう。奥には別の部屋に繋がる扉があり、その奥は操縦席だ。壁には気圧を変化させるスイッチがあり、その近くで気圧を測るメモリが赤と緑に光っている。椎名はまずライトに電源を入れ、宇宙人を奥に入れた。その時、頭の傘が少しだけ赤みを帯びているのを見た。警戒されているかもしれないので、両手両足を広げ敵意がないことをアピールする。髪の色が灰色になった。その姿を見て、ひとまず安心し扉を閉める。ハンドルを何度も回した。
 宇宙人は部屋の中を眺めている。扉の縁やメーターの電球、気圧を変化させるスイッチ、奥の部屋入るための扉、一つを見ては手をこすりあわせるような動作をして、また次を見る。その様子を窺いながら、椎名は気圧のスイッチを入れた。宇宙人は動きに気づき、ふわふわと近寄ってくる。次に椎名の顔を見てまた部屋の中を徘徊しはじめた。椎名は強張った表情を緩め、少しずつ気圧を上げていく。メーターはまだ危険域だ。宇宙人は壁をじっと見ている。材質でも見ているのだろうか? とりあえず変化は無い。片手でスイッチを操作しながら、宇宙人を見続ける。
 なにか異変があればすぐに止めるつもりだったが、なにも問題が起きることはなく気圧のメーターは安全圏を指した。椎名は宇宙服を脱いでから、思い切り息を吸い込みゆっくりと吐いた。宇宙人がこちらを見て近づいてきて、顔をぐっと寄せる。椎名は宇宙人の顔を凝視する形になった。灰色の肌は青魚のように光っている。緑色の瞳は丁寧に膨らませたしゃぼん玉のみたいに脆そうで、今にも割れてしまいそうだ。所々に空いている穴の中を覗き込んでみる。空洞が広がっていた。その空間の中を、不恰好な苺のようなものが八個浮かんでいる。それは近づいたり離れたりした。たまにくっついて、少し光ってから分離した。これは脳なのだろうと椎名は思った。一つ一つの不恰好な苺についている皺が椎名のイメージする脳の皺と似ていたからだ。脳が八個もあるってことは、地球の生き物とは違う思考回路なのだろうか? 想像もつかないが、やっぱり八人分の考え方ができるってことなのだろうか? などと考えていると奥の扉が几帳面に開いた。
「おい、てめぇ、ふざけてんのか」
 それは地鳴りのように低いところから山のてっぺんに飛び出す鋭さで聞こえた。伊澤の怒号だ。メーターの電球は、急に扉が開いたせいで不安定に点滅している。まるで宇宙船が不整脈を起こしているみたいだ。
 光が安定すると、まず反応したのが宇宙人。頭の傘が完全に締まり無数の針が飛び出たような見た目になっている。その全ては真っ赤になり、一足遅れて反応した椎名の頭の中には、キケンの三文字が渦巻いた。心臓が激しく波打っている。こんな力強さがあるのかと、感心した。
 宙で静止する椎名と、伊澤から決して目を逸らさない宇宙人。伊澤はどこを見ているか分からないが、その血走った目を見る限り、怒りでまともじゃないことが分かる。
「伊澤さん、落ち着いて……」
 椎名は体勢を整え伊澤にはっきりと言った。しかし、逆上しないように優しさを込めて。ちょうど浜辺で聞く海の音のような音色を心がけた。伊澤の耳に届いているのだろうか。そのまま動かない。出方をうかがっている。お互い、なにも言わずだ。
 宇宙人が動いた。手を顔の穴に突っ込む。伊澤は素早く身構えた。宇宙人の頭の針が青くなる。白みがかった青色の宝石のようだ。知的であり、またその格好が生みだす緊張感が存在を激しく主張した。とても張り詰めたイメージを生み出している。刹那、隙間風のような音が確かに宇宙人から聞こえてきた。
 伊澤は、宇宙人の青白い頭から目を離さない。怒りは少しおさまってきた。冷静になれ、冷静になれ、そう自分に言い聞かせた。もしかすると、あの青い頭の色のおかげで少し落ち着いたのかもな。なんせ、街灯を青に変えて犯罪率が減少、なんて話もあるし。ただ、その青をじっと見つめていると、なんだか不安な気持ちも湧き上がってくる。だんだんと自分の中の意思が、穏やかな気持ちに変わって、いつの間にか生命維持さえもが終わってしまうような予感。伊澤は自分が混乱しているのが分かった。宇宙人はしばらく隙間風を鳴らしていて、それがまた伊澤の精神を蝕むのだ。勘弁してくれ。俺がなにをしたっていうんだ。国に命じられて月に爆弾を打ちこむだけのことだろ。なんで宇宙人と一緒の船にいなきゃいけねぇんだ。叫び声を出すために息を大きく吸ったところで、声が聞こえた。
「おはようございます!」
 場違いに大きな声。その声の主は紛れもなく宇宙人だった。伊澤はおもわず、
「……おはようございます」
 と、情けなく言った。
 宇宙人は少し間をおいてから、緑色の目で二人を見た。二人はなにも言えない。それを確認すると、語り始めた。その声は、誰かの言葉を継ぎ接ぎしていて、高くなったり低くなったり、子供の声や老人の声になったりして喋っている。
「貴方達は 地球の 人間 ですね」
 椎名と伊澤はお互いの顔を見合わせた。二人とも、じっとりとした汗がへばり付いている。後悔か恐怖か、そのどちらとも分からない表情のまま、宇宙人のほうに向きなおり軽く頷いた。
「良い返事ですね! 俺の事話しても良いか? 私は 宇宙! に住んでますね。 この声は 地球の 音源を使ってるんだ。 ただ今、地球のまわりを巨大な石が覆いかぶさるように してるんだけど、それだよ、それ。 地球の データを回収してるんだ。 これがその 音源を使ってるんだ」
 何かを訴える若い男の声、神妙な語り口で事態の深刻さを謳うアナウンサーの声、映画かドラマだろうか、男性のワザとらしい会話の切り抜き、子供の声、老婆の声。どこかで聞いたことがあるような声が、切り貼りされ、コミカルが生み出す狂気を孕んでいる。椎名は少しおかしいその日本語を理解するよう耳をそばだてて聞いた。伊澤は分かりづらい言葉に苛立っているのか、わざとらしく舌打ちしたり手を開いたり閉じたりしている。
「続けるね。 ワレワレは宇宙人だ。 私は 地球 のファンなの。 巨大な石から 様々なデータを取っている。 君たちのことは聞いてるよ。 君たちにはこの宇宙船で月を爆発していて欲しい。 ということだろ?」
 この宇宙船に乗ることが決まった時、通達文を読み上げたあの上司の声が聞こえた。椎名も伊澤も頷く。
「なんで私を連れてきたの?」
 その言葉は椎名に向けられた。ただ、ここに連れてきた理由を聞いているのだ。深い意味などないはず、しかし、その言い方は激しく椎名を動揺させた。まるで、あなたの選択は間違っていると遠回しに告げられているような、そんな気分にさせるのだった。どんな返事をしても、納得してもらえない気がする。自分の中に充満していた後悔の予感を搾り出された不愉快な気分。椎名はなにも言えなくなった。いつまでたっても返事をせずにいると、宇宙人の頭が緑色に変わった。
「連れてきた理由を教えてくれ!」
 先ほどとは違う音声だ。映画のワンシーンなのか、それとも現実にどこかで起きていた出来事なのかは分からない。伊澤は、連れてきたのはお前だろうと言いたげな目つきで、無関心を決めこみ椎名に一瞥をくべた。椎名の額に汗が吹きだす。連れて来た理由、それはただの好奇心だ。異文化に対する理解、地球人のさらなる飛躍、柔軟な思想、そういうものに対する正しい好奇心だ。これで納得してくれるのだろうか?
 頬を少し掻いてから、椎名が口を開く。
「君に興味があったんだ。僕とはずいぶん違うから」
 媚びるわけではなく、素直に思っていることを言った。言い訳がましく言わないのは、少しだけ、宇宙人に信頼を感じていたからだった。
 緑色をしたビー玉のみたいな目を見つめながら、宇宙人の返事を待った。船内には、生命を維持させる為の装置が低い音を出しつづけている。たまに伊澤が体制を整え、服のこすれる音が不快に響いた。
 宇宙人は全く動かない。精巧な蝋人形のようだ。若い男の声で話しだすが、それは本当に音として流れているのか、脳に直接テレパシーのようなもので流れているのか、分からなくなってくる。
「おっけー! 俺も同じ」
 頭の傘が満開に開き、黄色くなった。椎名はお互いに関心があると知り、ほっとした。
「名前、なんて言うの?」
 宇宙人にも名前の概念はあるんだなと、思いながら椎名は
「俺は椎名」
 と躊躇なく答える。伊澤はそんな椎名を、眉間に皺を寄せながら横目でじっと見ていた。宇宙人は次はお前だと伊澤のほうを向いたが、返事をする気が無いと分かると、無視して話しはじめた。
「椎名 君たちに話さなくてはいけないことがあります 君達の作戦の 間違ってます」
 これにすぐさま反応をしたのは伊澤だ。
「どういうことだ?」
 ゆっくりと大きい声で言う。目は閉じていて、組んだ腕の上で人差し指が音を立てるように動いている。伊澤が喋ると、心なしか宇宙人の頭の傘が少し閉じている気がした。
「月を爆発してきて欲しい これ、全く意味が無いんです 巨大な岩は 月を爆発させれば止まるはずなんだ これ、関係ないよ」
「関係ない?」
 椎名は伊澤と宇宙人を交互に見ながら言う。その声は裏返り、とても間抜けだ。
「関係ないよ 回り続けるんだ 月を爆発させれば止まるはずなんだ これは間違い」
 機械の出す低音が止まったり動いたり、不愉快なリズムで鳴っている。
「月を破壊しても意味無いってことか? なんか根拠はあるのか?」
 伊澤は宇宙人を睨みつけながら質問を投げ掛ける。声色はとても落ち着いているようだが、顔は真っ赤で、眉間の皺はめくれて頭蓋が見えてしまいそうなほど寄っていた。
「別に説得したいわけじゃないしさ 本当なの! 月の破壊は 意味なんて無いよ それにさ、そうしたって 逆に困ったな 実は俺 守ってるんだよ! 地球」
 地球のあらゆる場所から録音された音声による会話は、いまいち要領を得ない。しかし引っかかる内容だ。椎名と伊澤、二人とも首をかしげる。地球を守ってるってなんだ?
 椎名はなにか言おうとしたが、やめた。なにか口にしなくては落ち着かない気分だったが、自分の中でも整理されていない事柄をむやみに話せば、余計に不安になる予感があったからだ。対して伊澤は、すぐに口を動かす。
「質問だ! おい、守ってんのか! 地球は散々だ!」
 質問とは呼べない、ただの愚痴を口にする暴挙だった。宇宙人がどう感じてるのか分からないが、頭の傘が少しだけ開いた。
「さっきも言ったけどサァ 地球を守ってるんだよ! 上空の巨大な岩が、イギリスの車やビルを吸い取っています。 ごめんなさい。でもしかたがなかったの。 実験に必要なんだ。 必要経費ってこと。 迎え撃て! 太陽を!」
 話が通じてるんだか分からない。言葉の選び方も、他意があるんじゃないかと疑いたくなる。
「えっと、地球を守ってるってのは分かったとして、太陽を迎え撃つって、どういうこと?」
 全く納得がいってない様子の伊澤を横目に、椎名は宇宙人と話を進める。
「言葉が違うのかな 私、日本語上手じゃない もう一回言うね」
 頭の傘が、黄色に瞬く。繋ぎすぎた配線が放つ火花と似た危険をはらんだ輝きだ。伊澤は目尻にも皺を寄せ、薄く開けたまぶたのあいだからそれを見ていた。その輝きはピークを迎えると急激に光を抑えはじめ、次に緑色に変わった、
「太陽 から 殺人 の 光線が 降る それは 太陽の 生き物の 計画 ということ」
 伊澤は、宇宙人の言葉が分かりやすくなったことに不快感を覚えた。それは、宇宙人を自分たち人間より劣っている存在だと漠然と思っていたからだった。勝手なその思い込みが、急激に流暢になった日本語により瓦解したので、不愉快になっている。少しでも苛立ちを緩和するために、唇の少し剥がれた所を前歯で咬み千切った。
 もう一人の男は、とりあえず落ち着いていた。非常に研ぎ澄まされている。宇宙人が話した内容を完全に理解しようと、感情の全てが切断されていたのだろう。ある程度理解が進んでいくにつれ、だんだんと恐怖が胃に落ちてきた。この宇宙人は冗談でこんなことを言ってるのだろうか? 声帯が震えてなかなか声が出ないが、無理やりになんとかした。
「今の話、本当?」
 緑色の目が椎名を見つめた。
「だとしたら、君はどうするの?」
 なんでそんな言い方するんだよ。椎名は頭を抱えた。

 太陽に潜む者は、産声をあげたばかりで、精神のみが存在している。
 それは、宇宙の子供。あとは体さえ整えばこの宇宙から飛び立ち、どこか遠い銀河、この宇宙からじゃ観測することができない場所に行く。
 それは太陽の出産。別に今回が初めてではない。過去に何度も起きている。そのたびにこの銀河は巨大な光線に見舞われ、大半の星は滅んだ。もちろん、僅かながら生き残る星もあるが。
 かつて、宇宙を渡る船の中で生命の光線を見た者達がいた。その生き物は性別の概念があり、およそ今の地球人と同じ仕組みで生きていたようだ。男女一人ずつ乗ったその船がまばゆい光に包まれる。その強大な光は閉じたまぶたを易々とすり抜け、意識に直接働きかけた。
 銀河が叫び声をあげる。球体が楕円に変わる。空間が歪み、近くの星々は歪みに吸い寄せられ、消える。その歪みに船が引き寄せられて行くのが分かる。新たな宇宙の生命が大きな翼を開くと、今までそれを育ててきた太陽が引き裂かれ、中から止めどなく血のようなものが溢れ出す。巨大な翼が一度はためくと、宇宙全体が揺れる。もう一度はためき、もう一度はためき、一定のリズムを刻みはじめる。次第に銀河の遠くに、虚無の空間が開いた。色も、距離もなにも無い虚無。巨大な翼を持った者は、その開いたばかりの虚無を抉じ開け、消える。およそ男に値する生き物はそいつを狂気の悪魔だと思い、女に値する生き物はそれを神秘の天使だと感じた。
 光線によって焼かれたその宇宙は、虚無が閉じる際の巨大な振動によって、壊滅した。
 そんな歴史があった。が、今、宇宙船に乗っている椎名も、伊澤も、瞳が緑色の宇宙人も、その他すべての生命も、知らない。知るすべもない。

「しらねぇよ。そんなもん」
 宇宙人の言葉に、伊澤が先に反応した。
「いいか、太陽になにがいるかは知らないがな、こっちは月を破壊すればいいんだよ。お前は俺たちを騙そうとしてるんだろ。ふざけやがって」
「いや、伊澤さん、もうちょっと冷静に考えましょう」
「てめぇ、ずっと宇宙人の肩を持ちやがって。寄生されてんのか?」
 椎名は伊澤の言葉に思わず仰け反った。そして睨みあう形になる。お互いに、亀裂は埋まらないことを直感していた。もし、家に帰ってゆっくりしてまた会うことがあれば、再び分かり合うことが、できたのかもしれないが。
 伊澤が浴びせた罵倒は、完全に二人の道は分けた。
「椎名 どうする?」
 宇宙人が問う。あとは、椎名がどうするのか。それだけだ。とはいっても、椎名の気持ちはすでに決まっている。
「俺は、宇宙人につく。詳しく話を聞きたい」
 伊澤は、顔を真っ赤にして震えた。
「裏切り者、てめぇは犯罪者だ。クソが、勝手にしろ」
 と呟いて、扉のほうに行く。椎名はなにか言おうとしたが、言葉が出てこない。伊澤の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「椎名」
 宇宙人が呼ぶ。振り返ると、頭の傘を満開に開いた。桃色に光っている。
「椎名 巨大な石に ご案内です」

 ここで爆発させるぞ。知るもんか。
 伊澤は覚悟を決めた。しかし、自爆をするわけではない。爆弾にタイマーをかけ、自分は緊急脱出用の為の小さな箱に乗って逃げるのだ。この緊急脱出用の箱、乗る、というよりはしまわれる、といったほうがしっくりくる。形も相まって、棺にしか見えないからだ。伊澤はこれを、地球への棺号と呼んだ。縁起の悪い言い方だが、緊急脱出装置よりは堅苦しくなくていいと思った。勿論冗談のつもりで棺なんて言っているが、だんだんと本当に棺なんじゃないかと不安になってくる。
 乗ってしまえば、後はやることをやって、地球に向かうだけ。地球に着くまでに命は持つだろうか。途中、隕石にぶつからないだろうか。酸素がなくなってしまうのではないか。温度には耐えられる? 速度には耐えられる?
 あの安っぽい紙でできた分厚い説明書を信じるしかなかった。後ろのほうにまとめられていた、三十ページにわたる、緊急時の退避方法。燃料が切れた際の、詳細な手引き。
 内容は、正直胡散臭かった。もし説明書が紙切れ一枚だったら、この地球への棺号を使おうなんて思えなかっただろう。説明書が分厚ければ分厚いほど信頼してしまう自分が嫌になった。
 そういえば、この船に乗ることになった時もそうだった。重役が何人もいる部屋に呼び出され、月の破壊作戦の内容がまとめられた分厚い指示書をもらった。一応、目を通した。が、これだけ内容があるのならと、あまり疑わずに快諾したのだ。
 おもえば、指示書というより契約書だったのかもしれない。契約書だったら、分厚いほど疑うのに。もしかすると、指示書の隅っこには、これは、月への片道切符ですよ、と遠回しに書いてあったのかもしれない。
 今更、そんなことはどうでも良いかと顔を叩いた。
 爆弾のタイマーは三十分後を示している。

 宇宙人と二人で、またバイクのような乗り物に乗っている。宇宙空間を自由に動くことができるこの乗り物は、目的地に引っ張られるように進む。揺れも全然感じない。快適な宇宙の旅だ。
 宇宙船を出る前に、宇宙人から頭の空洞の中の不恰好な苺のうちの一つを持たされた。これを持っていると、テレパシーのようなものが使えるらしい。といっても、もともと言語が違う為に、思ったことがすぐに伝わるなんてことは無い。
 それは思ったよりも硬かった。内蔵のように柔らかいと勝手に思っていたが、骨みたいだ。まぁ、あんなにすぐ手に取れる場所にあるのなら頑丈になるのは当然かと、変に納得した。
 今、その不恰好な苺は宇宙服の内側にあり、顔の周りで浮かんでいる。
 二人が向かっているのは、地球に覆いかぶさるあの巨大な石だ。途中、地球がよく見える場所で止まり、二人で景色を見た。どうやら宇宙人にも美しい景色を見て心を落ち着かせる時があるらしい。
「巨大な石 中の生物は 君を歓迎するよ もしくはその逆か どっちか分からないな 逆でも なにもしないよ 衣食住全部揃ってる。 特に関わらないだろうな みんな今は忙しくて精一杯なんだよな」
 椎名は不恰好な苺から流れる宇宙人の話をラジオ感覚で聞き流し、青い地球を眺めた。そして、宇宙船に乗る前に、髪を紅白に染めて、地球防衛の前祝いだと友達と騒いでたことを思い出していた。これからどうなるのだろう。あの石の中でうまくやっていけるかな。
 今まで、難しいことは考えてこなかった。前祝いに紙を赤と白に染めた時だって、宇宙に行きたいという理由だけでこの作戦に参加した時だって、ここにいる宇宙人とじゃんけんをした時だって、いつも楽しさとか、好奇心を優先してきた。とりわけ、今も難しいことは考えていない。けど、伊澤が別れ際にいった言葉を思い出した。裏切り者、犯罪者。
「椎名 椎名 椎名 椎名 椎名」
 サイレンのように自分の声が繰り返されている。
「どうしたの?」
「太陽の活動 活発だなぁ 今だよ」
 宇宙人は太陽の方を見ている。
「それって、さっき言ってた太陽の生き物のこと?」
「たぶん」
 短い言葉が流れた。バイクのような乗り物が動き出す。少しだけ速度を上げて。
 
 体は全く動けないほど固定されている。まるで真空パックだ。地球への棺号に入りスイッチを入れるとあっというまに圧縮された。固定してあるほうが安全らしいが、もうちょいなんとかしてくれよと、地球の開発者を呪った。動くのは顔と両手の指だけ。
 そのまま宇宙空間に投げ出される。目の前に着けられた丸窓から、広いのか狭いのかも分からない宇宙が見えた。気持ちは全く落ち着いていない。体を動かせないことがさらに不安を煽る。しかし不安になった所でどうすることもできない。入って一分ぐらいはがむしゃらに体を動かしていたが、体力を消耗するだけなのでやめた。
 口にはチューブを咥えている。口に入っている部分を噛むと、中から栄養満点のゲロみたいな流動食がゆっくり出てくるようになっている。体を固定されて二分後に試してみたが、二度と口にしないことを誓った。
 呼吸は基本、鼻だ。チューブを口から外せばいいのだが、手が使えない手前、もしチューブをまた咥えることができなかったら、と考えると、易々と外せない。
 この地球への棺号には、軌道修正用のロケットエンジンが乗っている。右手で方向を決めるボタンを押すと、勝手ににブーストしてくれる。ただ、何回ブーストをかけられるのかは分からない。
 宇宙船を飛び出てから、伊澤の頭の中に、残してきた家族、会社の上司たち、数少ない親友、他の全ての人間たちが浮かんだ。が、悲しくなるだけなので、なるべく考えないようする。そうすると次には、宇宙人と椎名の顔が浮かんだ。
 あの宇宙人の話は、嘘かもしれないし、事実かもしれない。ただ、椎名のように鵜呑みにしたってなにも始まらないだろうと思う。ましてや、易々と敵に寝返るなんて反逆者もいい所だ。自分の命が恋しくてなにが救世主といえよう。俺は地球を出発したその瞬間から、この命を地球のために使うと決めたんだ。
 月の破壊だけが救世主の仕事だろうか。もちろん最初はそうだったが、宇宙人の話を聞いた時点で話は変わってくるはずだ。
 もし、このまま地球に帰ったとしても、やったことは月を中途半端に破壊して、新たな問題を放置しただけで、こんなのなにもしてないのと一緒だろう。もし地球のみんなが許しても、俺が許さない。今、この宇宙で俺だけが、なにかできる。だから、なんとかしなくちゃいけない。たとえそれが悪あがきでも。
 伊澤は地球への棺号に乗る前に、あの宇宙人の話を録音機にまとめた。そして、録音しっぱなしで録音機を地球への棺号に一緒にしまった。あとは太陽まで行き、宇宙人の話の真相を見て、録音するだけだ。それを地球に持って帰る。なにか力になればいい。たぶん、距離を考えると自分の命は無いかもしれない。それでも、やると決めた。
 地球への棺号は、太陽に寄り道して地球へ向かう。

 巨大な石がずいぶん近くなってきた。太陽の光を反射してとても眩しい。
「君は月の見張りじゃないの?」
 椎名が聞くと、不恰好な苺から返事が響く。
「違うよ 月の 掃除係。 私が最後の一人だ。 他の人たちは 巨大な石に とっくに行ってるよ」
「え、そうだったんだ……」
 月には今、伊澤だけなのか。最後に見たあの背中が頭に浮かぶ。あれだけ広い世界に一人、生きることについて考えた。それは、あまりにも無意味で絶望的だ。
 伊澤を説得するべきだと思った。今から戻ってこう言おう。「スペースドッキリでした。まさか伊澤さんを置いていかないですよ」いや、これじゃまた怒らせるだけだな。言い方はまた考えるか。とりあえず、戻ろう。不恰好な苺にそのことを伝えようとした時、巨大な振動に揺られた。

 月の内部は蟻の巣のように、細い道と部屋の連なりで構成されている。壁は全て金属で表面加工してあり、湿度、温度共にコントロールがしやすくなっていたようだ。誰もいないある部屋で機械が誤作動をおこした頃、八個ある出入り口の一つで巨大な爆発がおきた。通路と部屋を粉塵が順番に埋め尽くし、耐え切れずに瓦解する。その爆発は月の半分を消し去った。
 抉られた月からは、巨大なディスプレイや、なにに使うか誰も覚えていないコード、鉄の塊、そんなものが散り散りに放出されている。破壊された月の破片は宇宙空間に放り出されたものから、地球に向かって速度を上げていくものまで様々だ。地球は大騒ぎしているだろうか。救世主が月の破壊に成功したと、そこら中で話題にするだろうか。望遠鏡で月を見ていた人も、飛び上がって喜ぶのだろうか。いつになったら、それが無駄だったと気がつくのだろうか。

 伊澤は、爆発の振動を感じると同時に、三十分経った事実に安心した。一人宇宙を漂っていると、時間が止まっているんじゃないかと不安になる。爆発の様子を確認したいが、気持ちをグッとこらえる。今は無駄な燃料は使っちゃいけない。地球に帰るための燃料だ。爆発の波がおさまる。また、なにもない世界だ。が、間もなく太陽の方からつんざく悲鳴が聞こえた。もしかして、宇宙人が言う太陽の生物か。なんだ、思ったより早いおでましだな。すぐに地球への棺号のブーストを使った。角度を変え、丸窓から太陽を確認する。太陽から光が溢れ出していた。わずかに、巨大な翼が見える。目を閉じたが、直接光線を受けたせいでなにも意味が無い。つけっぱなしの録音機に向かって叫んだが、言葉もままならない。その光は無限であり、快楽だった。そうか、宇宙の子供か。宇宙の子供が生まれたんだ。宇宙とはこの為に存在するのか。そうか、そもそも無意味だった。ただ、俺は見たぞ。俺の人生だ。俺はやりきった! これが俺の人生だ!

 爆発の影響で、太陽が動き出すらしい。それだけ言ってすぐバイクのような乗り物は、猛烈なスピードで進んだ。吐き気がした。内臓が浮かび上がって破裂しそうだった。その不快感が永遠に続く様な錯覚。が、それは一瞬で終わる。月が爆発を始めてから終わるあいだに巨大な石の入り口に着いた。
「急げ 太陽が 攻めてくる」
 宇宙人が厳しい口調の音を流す。門は僕らの到着と同時に開いた。二人乗りのまま中に入ろうとすると、太陽の方から優しい光が降った。その光を一瞬浴びた。
 様々な思い出があった。それはこの宇宙の記憶。太陽の中で意識に目覚める時、その瞬間、この宇宙がその意識を生み出す為にぐるぐると回る。どんどん過去に遡っていく。大きくなったり小さくなったりして、線になった。それも崩れて点になる。
 その先を見る前に、バイクのような乗り物は巨大な石の中に入った。門は光を押し込み閉じていく。
 宇宙人と椎名はバイクのような乗り物の上で放心していた。太陽に潜む者のイメージが頭を駆け巡る。果たして、あれに勝つことなんてできるのだろうか。あれは宇宙の正しいあり方だった。多分、僕たちが生きる死ぬなんてことは全く影響がない世界の話だ。あれの前では、僕らの全ては無意味だ。この巨大な石だって、すぐに破壊されるだろう。あれの光を浴びれば誰だって分かることだ。
「椎名」
 宇宙人が呼ぶ。椎名も、宇宙人を名前を呼びたかったが、まだ知らないことに気がついた。
「そう言えばさ、君の名前は?」
「ないんだよね」
「じゃあ、無いままでいいか」
「うん」
 警告音が鳴った。地響きも止まない。世界の終わりが始まっている。不恰好な苺から不安が流れ出してきた。
「逃げよう。宇宙の端まで」
 その言葉を聞き、宇宙人は頭の傘を満開に開いた。
「いいね」
 宇宙人はそう言うと、黄色い光を放った。門が開かれる。溢れ出るあれの光を無視して全速力で行く。椎名は自分の意識に集中した。かなりの距離を飛ぶように走った。ふと不恰好な苺の反応が感じられなくなる。あの光にやられたのだろうか。それでも、バイクのような乗り物は進み続ける。
 椎名はたった一人になった。そして、これだけ広い宇宙にたった一人で生き続けることについて考えた。それは確実に無意味だ。無意味だが、決して絶望ではない気がした。希望があるわけでもない。ただ、意味があった。それは自分の中だけに存在している。自分だけが知ることができる。椎名は今、それを感じていた。
 宇宙の端々が崩れ、見たことのない色が差し込んでいる。その景色を見ていると、死ぬことが怖くない気がしてくる。それは快楽。その光は喜び。危険な喜び。気を抜くと身を投げ出しそうになる。ただ、不恰好な苺が目に入るたびに持ち直した。
「そうだ、この宇宙の最後を見届けるんだ!」
 椎名は叫び、走り続けた。宇宙人が放つ黄色い光が、宇宙の最後に光になるまで。

鳥居ぴぴき 1994年5月17日生まれ 思いつきで、文章書いてます。