見出し画像

目の前にいるのは、同じ「心」を持つもの

一人の若者が、自ら命を絶ちました。

本当に悲しくて、訃報を知った日はぐったりしていました。

生きてなきゃ、何もできない。

でも、強く生きなくていいんだ。別に、何もできなくたっていい。

その選択だけは、誰にもして欲しくなかった。

そんなことをずっと考えていました。

私は以下の記事で、似たようなことを書いていますがちょっと視点が違うので改めて。

誰もが言論の自由を与えられているけれど

言論の自由を手にする前にもっと大切なことがあります。

それが「道徳」を守ること。

幼い頃から、誰しもが親や先生に「いじめをしてはいけない」「相手の立場になって考えて行動しなさい」と少なからず一度は諭されたことがあるでしょう。

対面ではしちゃいけないな、と思うことが

ネットだと「どうせ見てないだろう」「こう言ったら相手はどう反応するのかな」といったおもしろ半分で、気軽に書き込みできてしまう人がいます。

私自身も誹謗中傷を受けたことがあります。

一度目は、大学のミスコンに出場したとき、某掲示板にて。

二度目は、社会人になったとき。電話越しに保護者から「お前に子供は居ないから分からないだろう」と、罵倒されました。

この言葉は辛かったです。子どもを望んでいるのに不妊という自分の状況もありますし、会社に貢献して色々やってきたことへの誇りや今までの頑張り、それに対しての喜びが、このたった一言で虚しさに変わった瞬間でした。今でも会社を辞める動機の一つにだってなり得ます。

驚いたのは、後日その保護者と別件で面談することがあり、”あんなことを言うくらいだから相当怖いお父さんなんだろう…”とビクビクしていたのですが、とても電話でそんなことを言ってきたとは思えない程、温厚で低姿勢な方で、人間が抱える闇みたいなものを感じた瞬間でした。

実際に同じようなことがネット社会でも起きています。

おそらく誹謗中傷しているのは、普段から攻撃的な人ばかりではなく。

私みたいなごくごく普通の主婦とか、普通に社会人やっている人とか、SNSの正しい使い方が分かっていない未成年とか、そういう人たちが、片手間で人を簡単に傷付けています。

言葉は人を幸せにすることもできれば、簡単に傷付けることもできる。

人のこころは、あなたの傷や、ストレスのはけ口ではありません。

彼女がプロレスラーだったのに実は繊細だったとか、そんな見出しでネット記事が書かれていますが、人間は脆いもの。繊細であるかどうかは、関係ない。いかなる場合でも、傷付く言葉を投げかけた方が100%悪い。

”嫌なら見ない。反応しない。” これは受け取り側の一つの方法であって、傷付ける相手を根絶する解決にはなっていません。

じゃあ相手の情報開示をすればいいのか。

「罪となるからそういうことをしない」でいいのでしょうか。

”目には目を、歯には歯を の考えが一番の解決策なのか”

法学部に入って考えさせられた、一番の内容がこれです。(極論、死刑存続可否とかそういう話になります)

一番は、道徳を改めて一人ひとりが学ぶこと。私たち大人も。

こういう授業をやっているのも素晴らしいと思います。

消えるとあれなので以下内容↓

道徳の教科化を来年度に控える中学校で、生徒にネット炎上を疑似体験させる授業が行われている。この授業の狙いを埼玉県越谷市立平方中学校の大西久雄校長が解説する。
子どもに限ったことではないが、特にいじめにもつながるSNSによる投稿は、バーチャルなものではなくリアルなものである。
そこで起こる炎上といわれる騒ぎは、現実のライブ世界なのだが、この炎上でさえも仮想で体験できるゲームがある。大手広告企業の博報堂が企画した炎上シミュレーション・カードゲーム「大炎笑」がそれだ。
そして、公立中学校の校長である筆者は、このゲームを使った道徳の授業を開くことを考えついた。
「いじめはいけないこと」「嘘をついてはいけない」など、生徒を指導することは大事であり、学校教育のみならず、家庭教育でも繰り返し指導していくべきである。学校教育の現場として道徳が特別な教科となり、「考え、議論する道徳」をどう展開していくかは大きな関心事である。
 だが、道徳の授業で「考え、議論させる」には、皆が頭ではわかっていることや規則・ルールでの決まりにとどまっていては、表面をなぞる形だけの議論になりがちだろう。
 さらにその先を突っ込む要素がほしい。それだけの素材、教材がほしい。常々そう思っていた筆者の前に「大炎笑」は姿を見せた。
自分も他人も炎上させるゲーム
 炎上させる側、炎上させられる側のどちらも体験し、そのときの気持ちから「どうしたら炎上をさせない、されない」か、また、それは本当に可能なのか。
 こうした議論は子どもたちにとってのリアルであり、「大炎笑」は仮想ライブからリアル思考に落とし込める良い素材だと感じた。
 「大炎笑」は4人1組となり、決められたテーマに沿って1人1人が自分の意見を発表する。そして、4人が互いにカードを繰り出し、他人の意見を炎上させて攻撃したり、自分の意見にカードをつけて自作自演したりすることで、ネット炎上を疑似体験できる。
 カードには、「うざい。」「無能。」「ばーか。」「頼むから消えてくれ」「トレンド入りワロタww」などと、罵倒するようなコメントが書かれている。
 最終的に最も多くカードをもらった人が勝つことになるが、カードを10枚もらってしまうと「大炎上」で負けとなってしまうため、もらいすぎてもいけない。
 実際に道徳の授業で行う場合は、ゲームのルールを説明した上で以下のとおりに進める。
「大炎笑」を使った道徳の授業内容
1.実際に起きたTwitter上での炎上事案を提示
2.炎上を疑似体験し、その心理を体感
3.炎上しないためにどうすればいいのか議論する
4.議論した内容をまとめ、意見を発表する
5.ゲームを始める前の気持ちと向き合ってもらう
授業の準備段階では、生徒指導を担当する各学年の教師に対し、「大炎笑」を体験する機会を設定し、ゲームのやり方を学んでもらった。その後、各学年でその教師が中心となり、各学級で授業を展開することになる。
生徒たちがノリノリでゲーム
 実際に授業を受けた生徒たちは、こちらが想像した以上にノリノリでゲームを行い、日頃の硬い雰囲気での道徳授業とは大違い。授業に対する食いつき方が違うと感じた。
 たとえば、テーマを「先生ってどんな人?」にしたところ、生徒たちから「本当に勉強できるの?」「週末に東京でコスプレ」「ロリ以外愛せない」「家では赤ちゃん言葉を使っている」など、コメントが出てきた。
 議論の場面では、「炎上させたくなるのはなぜ」から「炎上したときの気持ち」を話し合い、その後に「炎上させない心得」を考える。
 「自分のコメントに責任を持つ」「過剰に反応しない」「書いたものを読み返す」などの意見に対し、教師が「それって本当にできるの」と現実にある状況に即したツッコミを入れるようにしている。
 ここでさらに生徒たちに議論をさせると、いよいよ本音が出てくる。このゲームが「考え、議論する道徳」に適していると感じたのはこの部分である。
 誰もが頭だけでわかり切った意見を言いがちで空疎になりがちな議論を、生徒の現実にあるリアルなライブ空間に引き戻せるのだ。
狙いどおりの効果を得られた
 授業を受けた生徒の感想には「普段スマホを使用していて、授業で炎上に触れることができ、実際の話となり、ためになった」「自分たちの実際の生活から考え、炎上させる側、させられる側の気持ちが考えられた」というものがあった。まさしく狙いどおりの効果を得られた証だった。
授業を行った教師も「道徳の授業は、なかなか本音と建前の意見の相違で苦しむことがあるが、今回の教材からは本音の意見や議論を引き出しやすい」という感想が出た。ゲームのやり方や説明をもっと簡素化できると、さらに教材化として有効だろうという意見もあった。
 また、授業を参観した保護者は、「ネットの炎上が授業の素材になることにビックリしたが、こうしたことを学べてありがたい。子どもたちは楽しく学べていて良かった」と述べている。
 本校の取り組みは関心を集め、いくつかの学校から問い合わせがあった。その際、筆者はこう伝えた。
 「日頃から安易な禁止制限だけに走らず、情報モラル・リテラシー教育に関心を持ち、指導をしておかないと下手に炎上体験を誘発することになりかねない」
 要するに、このゲームや道徳をするだけでは意味がないということである。
 そもそも、筆者が「大炎笑」を道徳授業の教材として導入したきっかけは、一本の電話であった。「大炎笑」を企画した担当者から「生徒にゲームを体験してもらい、感想を得られないか」という依頼があった。
 筆者は、子どもたちのスマホ・ネットに関わる情報モラル・リテラシーの啓発指導を6年前から活発に行っている。
 加えて、本校ではTwitter、LINE、InstagramなどのSNSを教育活動、学校経営で活用し、情報収集や編集・発信を精力的に行っている。
 さらに、生徒会を中心に全校生徒によるLINEスタンプ制作やYouTube動画配信なども展開している。
 こうした筆者の活動を知っている共通の知り合いに担当者が「やってくれそうな学校はないか」と相談したことから、筆者が校長を務める本校に白羽の矢が立ったのだった。
学校はもっとフレキシブルに!
 筆者は、OECD(経済協力開発機構)の教育局が提示する「相互作用的に道具を使いこなす力」「異質な集団の中で交流する力」「自立的に活動できる力」の3つの21世紀型スキルこそ、これからの社会で子どもたちが身につけるべき力だと考えている。
 ここで言う「道具」とは、学力はもとより、言語や、スマホをはじめとしたICT機器も含まれる。これらを使いこなしながら、相手と上手に交流し、自分の居場所を作りながら生きていける力が必要なのである。(msnニュースより)




私も「テラスハウス」の一視聴者でした。若者の恋愛模様や、人間関係の難しさをリアリティーショーを通して観ていたわけですが、ここで私たちが見なくてはいけないことは、「見えていないことを見る」ということ。

あの事件が起きた時、スタジオメンバーも番組を盛り上げようとちょっと発言や行動に対して「それはない」というようなことを言っていたと思うのですが、それに視聴者が加勢してしまった、ということが事実としてあると思います。

起こったことを断片的に見ているだけ。編集がされているもの。

私たちが見ているものがすべてなのか。ニュースなどでも同じです。

「見えていないものを見るチカラ」が、ネットの中でも、現実の中でも、等しく重要です。

その中に、「人の心」という真理を見なければなりません。


木村花さんの、ご冥福をお祈りいたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?