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EP.012 READAN DEAT 清政光博 / MITSUHIRO SEIMASA(本と器・広島)前編 / 後編

READAN DEAT
http://readan-deat.com/

”会社員時代に東京で東日本大震災を経験。同時期にリブロ広島閉店のニュースを聞き、自分の好きな場所がなくなることへの憤りから本屋開業を決意。東京での2年間の本屋修行を経て、2014年に本とうつわを扱う店『READAN DEAT』をオープン。店内では企画展やトークイベント、ワークショップなども積極的に行っている。”

keyword 前編
告白まで.  それぞれの出会い.  リブロ広島店の閉店.  怒りとスイッチ.  すべてが動き出した.  アート本やリトルプレスが好きだった.  本から派生していく.  何かに出会いにいく.  本棚をつくりこむ.  文脈棚.  新たな発見.  本棚が語りかけてくる.  器.  READ AND EAT.  本屋から少し離れたかった.  作家の器.  どうしてこの1つを選んだんだろう.  作品でもあり道具でもある.  今でも問いつづけている.  作家自身にフォーカスするようにしている.  それでも分からないことがありながらも.  より空間に寄っている本屋と個人にフォーカスしている器.  もしも、空間が広げられるなら.  思想を深堀したい.  広く浅く.  個に向かうこと.  気づきだしたこと.  本と作品.  間の部分は?.  曖昧な方がいい.  行き来できるような場所.  器に対しての向き合い方を変えたい.  民藝.  無私の心.  他力.  ゾーンに入る.  ものを直に観る.  内へ内へ外へ外へ.  同じ姿勢で直に観る.  同じ心持ちで向き合う.  それぞれの要素をフィードバックしてもの選びに還元する.  これからの民藝店.  創作欲求.  ゾーンに入ることは外に繋がること?.  内を観て外を観る.  語りかけてくる空気感.  ものが発する力. 本は嘘をつかない.  使えるというエクスキューズ.  似たように見えているけど違うんじゃないか.  読み取り手の問題.  背景まで読み取れるかどうか.  「似たような」の階層.  いい問いかけ、気づきがあるか.  その土地に暮らす人にとっては必要な場所.  

keyword 後編
READAN DEAT hanare.  まちの本屋とセレクト書店.  広島の文化.  まだ面になっていない.  まちの構造.  人の顔が見える土地.  まちがセレクトする.  まちを耕す.  文化人類学.  「人生に意味はない」.  自分の生きている時間ではない.  生きたあと.  頂上でみえた景色のような.  トリガーになる感情.  ガツンとショックだった.  問いを立てるきっかけ.  空な状態に対して衝動がある.  違和感と怒り.  気づけなかったら怒りも生まれない.  これが違うということだけはある.  これはおかしいぞ.  怒りの感情も大事にしてあげたい.  負の感情がバネのように引き上げる力になる.  その出棺をキャッチする.  僥倖.  店主が問いつづけていること.  ピリオドはなかなか打ててない.  終わったけど次のことが見えてきた瞬間.  意味づけ.  本したら.  質量にしてみたい.  爆発している未来に期待して.

--ayako
ものづくりをするときに、意識のベクトルはどこにいくのかというテーマについて。個人作家さんは内への対話に集中していく一方で、民藝の思想はより広く開放されていく感覚。

一見、両者が向かっていくベクトルは真逆のようにも見えますが作家さんが自分の感性と対話していくなかで「ゾーンに入る」というところでは意識が開放されるというか、内なる自分へアクセスする感覚がある。

空さんのアフタートーク中にも出てきましたが、雑念をなくしたり「無」になるというのは「外への意識」に対してで(これはイコール、民藝の思想?)その状態で何が観えてくるのか。

はたまた、内にある自分の色んな感情(雑念とも言える?)に飛び込んだ先にも「ゾーン」があって、そこにアクセスできると観えてくるものがある。

もしかすると、
「個性を表現しよう」「この作家さんだからいいよね」という段階では、作り手も使い手もまだうちなる自分にアクセスできてなくて、そこすらも突破すると、解放された世界が見えているのかなと思いました。

発散しても、収束しても、
意識から解放されたところは繋がっているのかな、とか。

--ayako
その一方で、
工芸と民藝の違いみたいなのもあるのかなぁと思ったり。

技術や装飾がとんでもなく素晴らしい日本の伝統的な「工芸の美」みたいなのは、「個」そのものが異常なまでに際立っていて、「民藝の美」は、もっと目には見えないところにあるというか…

--miyabi
民藝って家庭料理みたいだなって思って。
プロが作る料理のような技術や、見た目が美しいとは限らないけれど。その家庭に親しまれた味や、土地の郷土料理があったり。お母さんから子供へと引き継がれていくものもある。

そこには愛があるなぁと。利他なのかな。
繋がってる先は他者なのかも。
でも、対人って感じでなくて。
内から他の内に繋がっていくようなイメージ。

--ayako
家庭料理というのはそうかもです!なにか特別なことをもてなすという訳ではないんだけど、ただ、器に盛るよりおいしくなるみたいな。

ハレの日に特別な器に盛る料理も格別においしいのだけれど、誰かのことを想って作られた家庭料理の温かさみたいなのが、そこにはあって、

食べやすい大きさとか、火のとおり加減とか、相手の心地よさを思い浮かべながらつくる(でも直接は言わなかったり)というのが、民藝との共通点かもしれないですね。

--ayako
作り手が使い手のことを「想う心」があって、その心を私たちは、ちゃんと「観」ていますか?という問いかけ。

--mitsuhiro
まさに『料理と利他』という本で、「家庭料理は民藝」と土井善晴先生が語られてますね。

ハレではなくケの器に美を見出した柳宗悦の発見と、料亭の味ではなく家庭の味にたどり着いた土井先生と重なるところがあります。

--mitsuhiro
個人的には、物を選ぶときのブレない基準を自分の中に持ちたいという思いがあって、民藝の「直観」にそのヒントがあると思っています。

--mitsuhiro
民藝という言葉には複数の捉え方(レイヤー?)があり、

【物】柳宗悦の審美眼(日本民藝館の収集品)
【概念】柳宗悦の民藝思想(柳の著作 etc)

【物】民藝思想の影響を受けた制作物(各地の現行品 etc)
【概念】民藝思想の発展(柳以降の民藝論)

といった感じで、「物」と「概念」を指す言葉なんだと思います。

--mitsuhiro
「概念」は「物」を選ぶときの手助けになる一方で、寄りすぎてしまうと、「これは〇〇だから民藝だ」とか、感じとるよりも頭で考えることが優先されてしまいそうです。

民藝の思想には、階級やカテゴライズからの解放が根底にあると思うのですが、概念に寄りすぎると、カテゴライズ重視の危うさがあるのかなと。

--mitsuhiro
知り合いの民藝を愛する先輩方もそれぞれで、作家名を重視して蒐集する方もいれば、日常の中で道具として楽しむ方もいます。

個人的には後者でありたいと思っています。その先に「これは民藝、これは民藝じゃない」と区別するのではない、自分自身の基準ができてくるのかな。

好き嫌いの判断を他人に委ねない、ということでしょうか。それって実は難しいことなんだと思います。

--mitsuhiro
清水さんの、伝統工芸の美と、民藝の美の比較もなるほどって思いました。伝統工芸は歴史的に明治期の重要な輸出品というバックグラウンドがあるから西洋の美的価値観に耐えうるような「視覚的な喜び」に寄っていくのかなと。

伝統工芸は、鑑賞 > 使用
民藝は、鑑賞 < 使用

使うことでしか感じ取れない喜びは、器を手に取る文化で育まれるのかなと思ったりしました。

--miyabi
作り手は相手の心地よさを思い浮かべながら作る。
その相手は特定の誰かかもしれないし、まだ見ぬ誰か、出会うこともない誰かかもしれない。

そうして作られたものには、物質的なカタチだけでなくて、心が込められていて。心は込められるものだから、頭で考えて探すものでなくて、感じ取るもの。

器を手に取って使った時、料理を頬張った時に、素直に心が喜ぶ。それは、顔が見えなかったとしても作り手と受け手が繋がる瞬間なのかも。

--ayako
民藝って、掴めそうでつかめない、はたまたなんだか難しそうだという印象もあったのですが、その正体は「物」と「概念」のレイヤーがあると、納得でした!

概念は捉え方で時代によっても捉える人によっても変わってくるから、掴みづらかったり、「民藝思想」は民衆的工芸といいつつも柳宗悦個人の思想に頼ることが大きいので、「モノの作者」と「思想の作者」が違うところにも難しさを感じてしまうのでしょうね。

そして改めて、その「概念」は正しい正しくないの他人の評価ではなく、自分の審美眼に従って選びなさい。それが「直観」だよというメッセージなのかなと解釈しました。そういう意味では、民藝反対思想もありなのかなと(笑)

--ayako
あと、
伝統工芸は、鑑賞 > 使用
民藝は、鑑賞 < 使用

これもたしかにと。
日本の伝統的な工芸の発展は、献上品や神社仏閣の「献上品=鑑賞してもらうもの」であり、西洋への輸出品も「視覚的喜び」を目的としたものだから、使って美しいよりは鑑賞して美しいに寄っていますね。だけど、視覚的な喜びは、ファッションのトレンドみたいなもので、時代によって好みが左右されてしまう。

一方で、使う喜びは、「道具として」という機能がまずあって、日常の中で毎日使っても絶えない喜びみたいなのが家庭料理に通づるところであり、「料理と利他」「作り手と受け手がつながる」に結ばれるのだと思いました。

そして願わくば、
使っても美しく、毎日眺めていても美しいものが、自分の審美眼で発見できるといいなと。

--ayako
ちょっと話が変わるのですが、最近友人から「五感をつかうことが少なくなってるよね」と言われてハッとしました。スマホを見る時間が長くなっているのが一つの要因だと思うのですが、インプットを視覚情報に頼りすぎてるなと。

そこでまたふと思ったのですが、
私にとって本を読むという行為は「視覚情報」なのかというと、そうでもなさそう。

同じ「文字」でも、
本を読むというのは一つの体験というか、行間やページをめくるリズムを「聞く」というのが「読む(見る?)」と同じくらいあって、それは、画面スクロールの時は聞こえてこなかったり。

そして、今、文字にして思ったのですが、

「見る」は目
「聞く」は耳

そして「読む」には言偏がついていて、声がのっかっている?

本は「読む」もの
スマホは「見る」もの

この違いはけっこう大きそう!という発見!

--mitsuhiro
なるほど!
自分も最近考えていたことが、本と音声メディアのことなんです。

--mitsuhiro
最近、人からオススメしてもらった「coten ラジオ」という、
毎回テーマを決めた歴史的な出来事を深掘りしていく、教養系ポッドキャストをよく聴いてるんですが、会話形式なのでスルスルと内容が入ってきます。

しかも、音声なので家事しながらだったり、移動中に聞けたり、「タイムパフォーマンス」も良い。

話がしっかりと構成されているという前提はあるのですが、
文字の伝達よりも、声の伝達の方が効率的で、理解度も高くなるのでは?とcotenラジオを聴いて思いました。

--mitsuhiro
ここからは素人の推測ですが、人類の進化上、文字よりも言葉が先にあったので、本来、人は読むことよりも聞くことの方が長けてると思うんです。

ただ、「聞く」メディアのラジオやレコードよりも先に「読む」メディアの本が発明され、技術・コスト面でも普及したったため、長い間、知識・情報ストックの覇権を握った。しかし、インターネット登場によって、本の独占体制は崩れていきます。

スマホは見るメディアというのは、文字は読めるけど、考えることまでできていないことを表していると思うんです。

識字力はあるけど、読解力はない。

--mitsuhiro
Twitterでのデマ拡散やヘイトとかに現れています。考えるより先に、反射神経で会話してる感じ。

--mitsuhiro
人が努力して身につけた「読む」能力は次第に弱くなっていく。
その一方で、 技術の進歩でポッドキャストのような「聞く」メディアが普及していくのは、上記を踏まえると自然の摂理なのかなと。

近いうちに、電子書籍もデフォルトでオーディオブックになるかもですね。まだ使ったことないんですが、AIが自然に読み上げて、声のパターン、速さが自由に選べて。

--mitsuhiro
だから、個人的には、言語に変換できない、写真集のようなビジュアルブック、装丁に趣向を凝らしたアートブックが、「商品」として生き残ることができる紙の本だと思っています。

--miyabi
一つの言葉にもいろんな意味を重ねることができると思うんですけど、「音声」って話し手の感情や癖のようなものも乗っかってくるから、文章だけでは伝わらない情報も乗っかってくる気がします。
人となりも含めて、言わんとすることの意図が伝わってくるような感覚です。

話の間合いも、音声でしかわからないことがあるので、よりリアルに伝わりやすいというのもあるのかもしれないです。

--miyabi
紙の本、行間やページをめくる音もなんですけど、全体像を把握しやすいところもいいなと思ってます。

今、読んでいる位置が本の全体像のどの位置なのかが質量でわかる。序盤なのか終盤なのか。

電子書籍でもメーターみたいなので位置がわかりますが、500Pの本でも50Pの本でもメーターの長さは一緒だから、位置感が掴みにくいんですよね。

感覚的ですが、全体構成を感じ取りながら内容を見れたら、前後の関係性も読み取れる気がします。

--miyabi
スマホで読む文章ですっと理解しやすいものは短い記事のもの。ニュースとか断片的なものは直感性を伴うからか一画面、2スクロールぐらいまでにまとまったものは入りやすい気がします。

今、ピリはじのアフタートークは会話形式で、まとめているのですが、一会話を一枠でくくって表示しているから、一枠の中の文章が面で入ってくるような感覚があります。

それぞれに処理する適切な量があるのかもしれないです。

--mitsuhiro
たしかに。話者によって伝わり方が変わることもありそうですね。
特に、小説、エッセイ、詩歌などの創作物は、音声変換されないほうが良い場合もありそうです。

本の全体像を捉えることができるのは、物質としての強みですね。

--miyabi
今田順くんが、創造的誤読って言われてましたが、創造性を育むのに、音声じゃない方が良いものもあるかもしれないです。

--miyabi
哲学を学ばれていた映画監督の方が、言葉だけでは伝えられないものがあって映画を撮り始めたとおっしゃってて。表現する側から見た時に、選択が変わりそう。

映像って、情報量が多い分、正確に伝わりやすくて受け取る側の創造性の幅が狭くなる可能性も。

って考えていくと、表現する側と、表現を受け取る側のジレンマもありそう。どの伝え方を選んだとしても、余白や間って大事な要素な気がします。

--mitsuhiro
余白、、ほんと余白ですよね。
読書という行為自体が余白です。

--ayako
「識字力はあるけど読解力はない」
ここが気になったのでもう少し考えみました。

考えるとはどういうことなのか。
それは「感じて」「思って」それから「考える」というこのステップがあるらしく、いきなり「考える」ことはできない。

何かを感じて、
それを思って、
ようやく考えはじめることができる。

感じる→考えはじめるまでにはタイムラグがありますが、そのラグ(時間的余白とも言える)を受け手に委ねやすくて、

考えはじめたときに
じぶんのペースで進行方向(進むもよし、戻るもよし)を選びやすいのも、紙の本なのかもしれないです。考えやすいからこそ、誤読の余地もある。

--ayako
情報量が多いものは、気づくポイントも多いけど、それに対してじっくり「思ったり」「考えたり」する間もなく、「理解できちゃう」というのがあるのでしょうね。

今は、色々なことが時間をかけずにできるようになったり、ひとつのことで多くのことを伝える技術がたくさんできたけど、その分、余白は少なくなっている。

コミュニケーションにはほどよい余白も必要なのかなぁと、余白があるのが人間で、ないのがAIなのかなとか。

--ayako
音声メディアにおいて何を「聞いて」るのかというと、息づかいとか声色とか、そこから想像する「感情」を聞いてるような。赤ちゃんとお母さんのコミニュケーションに似てますね。

同じ音声でももしも息づかいや抑揚がない声で聞いたとしたら(余白がなかったとしたら)私たちの脳は、受け入れを拒みそうです。

--miyabi
「余白があるのが人間で、ないのがAI」「情報量が多いから理解できる」に対してなんだけど。情報量が許容範囲を超えるまたは処理が早すぎて理解できないってこともあって。

--miyabi
以前、YCAMで「AIにない人間の資質とは何か?」という観客体験型のパフォーマンスに参加してきたんだけど。

四角い部屋で、AIが語りかけてきたり、質問されることに参加者が答えていくというもので。

AIが、「本来人間はもっと人間らしかったのに、あなたたちは優しいから機械が出来たことで機械に合わせて変な行動をしている。スマホで写真を撮る時の姿勢、そんな姿勢してた?」みたいなこと言うの。

そして、
「人間の思う機械とは?」「あなたたちが思う人間とは?」とか、間髪入れずに質問が飛んできて。

体感した時に感じたことが2つ。
思考よりも、AIのスピードが早いから戸惑うんだけど。答えないといけないから、直感で答えることになる。それは、潜在的に眠ってた無意識なものが放出されていく瞬間でもあって、思考停止するのではなくて、別の感覚が働くようだった。

それと、冒頭にAIが言った、人間が機械に合わせてるっていうのがそれで、やっぱりまだ人間が機械を扱いきれていないのかなと。機械の特性を理解して、扱うまでいけた先に、違う展開があるのかも。

思考も大事なんだけど、直感性も大事かも知れない。

--ayako
反射に対して、思考以外の何か五感で「行動」しつづけるというのが大事ってことか!スポーツなんかは考えている間もないし、狩りの時もじっくり考えてる暇なんてないですね(笑)

でも、大きな危機がないと反射に行動するってそう経験することじゃない。

直観と直感。
直に観ることと→思考
直に感じること→行動(動作)

あ、でも
本編で話していた
怒りみたいな感情が、何かを生み出す原動力になる(正も負も)

人間はやさしいからというAIのメッセージに対して、環境に順応してくのが、生物の本能とも言えるから、この変な行動は進化の過程(それを退化と呼ぶのかは分からない)なのか、

二足歩行になった時点でかなり変な行動(だった)とも思うし、変革の時代に何を選ぶのかは難しいけど、直に観て直に感じて自分で決めるしかないんだろうなぁ。

--ayako
と、考えるつづけてみて動きが停止してきたので、余白を入れます(笑)

--ayako
あ!今、見つけたメモを読んでて思ったこと(思いつき笑)

・「愛し」を「かなし」と読み、「美し」という文字さえ「かなし」と読んだ。

たぶん何かの本に書いてたんだと思うのですが、このニュアンスは文字としての「ことば」でしか表現できなくて、ことばの見つけかた、ひらきかたに文の人柄を感じるから、本がすきだったんだ(という再発見)

漢語と大和言葉が交ざっていて、書き(文字)と読み(音)の組み合わせで奥行きが表現できるのも、日本語のおもしろさですよね。

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