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小説:その坊主頭

 夜の10時になって、玄関から「ちょっと出かけてくる」という聞き慣れない誰かの声がして、2階の自室にいたわたしは一瞬静止してから部屋を出て、足音を立てるのを控えつつ階段を下りる。最下段で留まり、警戒しながら玄関を確認すると、お父さんとお母さんがいて、琢海もいる。琢海は半袖のTシャツと学校のジャージ姿で、スニーカーを履き、手ぶらで土間に立っている。お父さんとお母さんは、それを廊下から見ている。
「さっきの声って、琢海?」
 誰も何も言わず、ここでどういう流れがあったのか知る手掛かりのなかったわたしは、取りあえず発言して自分の流れを作る。
「あ、姉ちゃん。今からちょっと出かけてくるよ」
 お父さんお母さんと見つめ合っていた琢海がわたしを見て言う。
「出かけるって……こんな時間にどこ行くの?」
 聞きつつも、わたしは琢海がさっきの質問に明確に答えていないことを少し気にしている。
「山まで行くって言ってるんだよ」
「やめときなさいよ……こんな時間に山なんか行って何するのよ」
 と、お父さんとお母さんが困った顔で言ったのに、琢海が苦笑しながら「違うよ。山なんか行かないよ」と言う。
「? え、どういうこと?」
 わたしは真偽を問いながら琢海の顔を見る。琢海は笑っている。「山って……山なんか行かないよ……」ずっと笑っている。楽しいのだろうか? わたしは楽しくない。少し恐い。これは本当に琢海なんだろうか? 琢海はわたしを恐がらせるようなことはしないはずだ。
「だけどお前、さっき山に行ってくるって言ったじゃないか」
 お父さんも緊張した声色で言う。
「言ってないよ。そんな風に聞こえた?」
 琢海はまだ楽しそうだ。わたしは『ちょっと出かけてくる』という声は聞いたけど、山に行ってくるという声はたぶん聞いていない。
「じゃあ、どこに行くの」
 わたしは聞く。色んなものが見えなくなって、聞こえなくなって、触れられなくなっていきそうな感覚がある。両手をぎゅっと握り締める。
「まあ……ちょっとそこまでだよ」
 言いながら、琢海は自分の坊主頭を撫でる。琢海のいつもの癖だ。たぶん、本当のことを言っていない時の。
 わたしは最後の階段を下りて、裸足のまま土間に踏み入る。琢海の前に立ち、頭を撫でる。
「ちょ、姉ちゃんやめろよ」
 くすぐったそうに逃れる琢海。それでもわたしは強引に頭を撫でる。琢海の頭の、どこを調べてもわたしの指紋がべったり出るだろうという勢いで触り続ける。わたしのしつこさに降参したのか、やがて琢海は抵抗せずに頭を差し出して好きに撫でさせてくれる。
「お前、帰ってくるよな?」
 お父さんの声が後ろから聞こえる。
「帰ってくるわよね?」
 お母さんの声だ。
 琢海は俯いてわたしに頭を差し出している。何も答えない。わたしも何も言わない。まだ頭を撫でている。
「もういいだろ。姉ちゃん」
 1時間か、30秒か、そうしてから琢海が言う。琢海がわたしの両手を掴み、頭から離して下ろす。わたしは自分ではそれができなかった。
「じゃあ」
 琢海がわたしたちから離れて、扉を開けて出て行く。こちらに手を振ることもない。挨拶もない。当たり前だ。ちょっと外に出るだけなのだ。それはとても、何てことないことのはずだ。たぶんお父さんもお母さんも、そう考えている。わたしは両手をぎゅっと握り締めている。



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