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31音の演劇

木下龍也「オールアラウンドユー」短歌集を読みながら、私にとって短歌は演劇のいいとこ取りだと思っていることを思い出す。

私は演劇上演観る時、語られる物語を真剣に見つめていることは少なく、演劇で写し出された瞬間に共感できるかを眺めている。

あれは私かもしれない。
何かを選ばなかった私かもしれないし、選んだ私かもしれないと思わされることが演劇にはあって、
自分のいくつかに分岐した人生の中の一つの可能性を見る。

確かに感じたことのある感情がいつぶりかに湧き上がってくることもある。
「私はこれを知っている」と舞台越しに自分を見ることもある。

物語を見るために客席に座っているわけではなく、舞台の奥の壁のその先の世界や、対峙して座っている客席の私たちを見るために劇場まで足を運ぶ。

演劇はいつも、舞台の外で起こっていて、
それを思い出すために、観客となって舞台を必死に見つめる。

木下龍也さんの短歌が3年前くらいから好きで、
単行本を買ったり、サイン会に行って本人に会ってみたり、私のための短歌を作ってもらったこともある。

たくさんの歌人のたくさんの短歌を読んでいるわけではないので、
どんな短歌も演劇だと思えるのかはわからないが、
少なからず、木下さんの短歌は私にとっての演劇だ。

持ち運べる最小単位の演劇

31音で、演劇を観た時のような揺れた心の存在に気づく。
またこの短歌という演劇は持ち運べる。
短歌集として本になっていればそれを、
たった31音だし、メモして財布に挟んでおいてもいい。

一回性であり、上演ごとにわずかに若しくは大きく条件が違い、公演期間が終わると基本的に美術セットも衣装も小道具も全て手放す、演劇のそれは「儚く美しい」とも考えられるが、

私は演劇で目撃した瞬間をいつまでも大切にお守りとして手元に置きたいと思ってしまう。

観劇後に上演戯曲を買っても、公演映像を買っても、あの瞬間は、再び自分の前に現れることはそうそうない。
その上演に心が動いたわけであり物語単体を読んでも内容を確認したり思い出したりするだけで、公演映像を見ても劇場空間が私を包み込むわけでもない。
また上演されないかな、また劇場で観たいな。と思うだけだ。

短歌には劇場はいらない。
美術セットも衣装も小道具も、照明や音響のシステムも、俳優でさえいらない。
たった31音の言葉が目の前にあるだけで、自分の心が劇場になる。観客であり登場人物になる。

いつか感じた感情や、
見たことのある情景や、
これから先出会うかもしれないハプニングが、
現れる。

心の中に現れたそのワンシーンが、
何度でも、言葉の連なりを読むたび自分に問いかけてくる。

まさに演劇の再演を見ている時と同じ感覚で、
自分の心の状態や、
時代や世相も影響して、
感じ方が変わってくる。
その感じ方の変化も楽しみのひとつ。

ただ、演劇は再演が決まっていないことも多く、
また体験できるとは限らない。
また観たいと思いを馳せ続けていても、私の命の方が先に終える可能性も十分にある。
演劇とはそういうものだ。

短歌は、長い長い時間を事細かに語ることはできないが、
長い長い時間を想わせることはできる。
全く何もかもが演劇と同じようにはとはいかないけれど、

最小単位の演劇
持ち運べる演劇

としても短歌が楽しいので、
演劇が好きな人は短歌も好きかもしれない。
短歌が好きな人は演劇も好きかもしれない。

それぞれ楽しむ人が、もっと増えたらいいのになと思って、
ここに書いて置いておきます。


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