286回 アップデートの準備ができました


最近評判になったTVドラマのキーワードは「アップデート」だった。
昭和と令和の二つの時代を行き来することで、当時当たり前だった価値観が今や古く差別的で時代にそぐわないものであることを浮き彫りにするという、秀逸な脚本である。そしてこのドラマが優れているのは、単に前の時代が問題だったと糾弾するのではなく、現在もまた時代が進めばあの時の常識はおかしかったと言われるであろうという、相対的な可能性をきちんと示していたところだろう。
いつの時代も後から振り返れば、なんであんなことが罷り通っていたのだろうということばかりである。いま当たり前だと感じていることは当たり前ではなかった。セクハラ・パワハラといった行為がハラスメントとして認識されるまでに、どれほどの時間がかかったか。いや、まだまだ周知されるには程遠い。
事ほど左様に、価値観のアップデートというのは難しいものなのだ。

科学に於いてアップデートというのは、辿ってきた歴史そのものである。
物質や状態、作用や反応といったものが発見され、それを利用した技術が発展し、それによってまた新しい知識が蓄えられる。その過程には数多の失敗や誤謬、そして訂正・修正が限りなく繰り返されてきたことだろう。
つい最近、科学博物館で開催されている「大哺乳類展3」を観る機会があった。科学の発展と共に、生物の分類とその進化の系統について劇的にアップデートされてきているということを目の当たりにして、非常に興味深かった。
中でも驚いたのは、進化についての学説である。私が学校で習ったのは「魚類→両生類→爬虫類→哺乳類」という直線的な進化の道程であった。これが実際長い間定説であったことは間違いない。
それが様々な化石の発見や原存生物の形態学・発生学・DNAの分析などから、哺乳類は爬虫類から進化したのではなく、爬虫類と哺乳類は両生類から別れて別の進化の道を辿ったというのが既に常識となっていたのである。両生類から羊膜類(羊膜と卵殻をもつ四肢動物)が進化し、その羊膜類から、後に爬虫類となる双弓類と哺乳類となる単弓類が進化したと、現在は考えられているのだそうだ。
平成24年度の中学校理科教科書から、検定によってこのように変わっているというのだから、10年以上知識のアップデートに遅れを取ってしまったことになる。元生物学に携わっていた者として、痛恨の事実であった。
しかし考えてみれば、これもまた未来には覆される可能性もあるのだ。科学はその歴史の中で、常にこうしたアップデートを繰り返してきた。

そもそも「アップデート」という言葉を初めて耳にしたのは、パーソナル・コンピュータ、所謂PCが普及し始めた頃だったと思う。1980年代か。
「update」という英語自体は元々存在しており、更新する/最新の状態にするという意味である。それをコンピュータのソフトウェアに当てはめて、不具合の修正や新機能の追加、セキュリティの強化など小規模の更新を行い、最新の状態を保つことを意味するようになった。
現在はスマートフォンのアプリも自動でアップデートされることが多いが、昔はソフトウェアのアップデートは一仕事であった。特にOSのアップデートはおおごとで、下手にアップデートするとそれまで問題なく動いていたソフトが動かなくなる。それ以前にアップデート自体に時間がかかるため、気がつくと途中でフリーズしていることも多く、そうなると元の状態に戻すのにまた多大な労力と時間がかかり、その度に泣きながら再インストールする羽目になる。アップデートは覚悟を決めてやらないとならない大変な作業であった。
アップデートと似たような言葉に「アップグレード」というのがあるが、こちらはソフトウェアを新しいバージョンに置き換える/書き換えるという意味になり、総入れ替えのようなものなのでもっとおおごとになる。
「アップデート」という言葉が人口に膾炙するようになると、IT関連だけでなく、知識や価値観にも使われるようになり、今では「アプデ」という若者言葉もあるようだ。それくらい現代は全てのことに「アップデート」が必要な時代になっているということだろう。

このところ不適切な発言で炎上したり辞任を迫られたりする出来事が後を絶たない。
それもよくもまあこれまで価値観がアップデートされなかったものだと感心するような、旧態然とした内容ばかりだ。ジェンダーバイアスに関すること、人種や国籍・職業に関すること、現代の感覚からすると差別意識丸出しの発言が、さも気の利いたことを言ったかのように話される。昔ならそれは身内だけの内輪受けで済んだのかもしれないが(それも良いことではない)、今は即座にSNSで拡散される。自分の発言が及ぼす影響の大きさが、数十年前とは桁違いになっていることも、自覚しなければならない。
行動も同様である。セクハラやパワハラや体罰など、自分はやられても耐えてきたのだからお前たちも耐えろということほど、ナンセンスなことはない。それでは虐待の連鎖と同じになってしまう。自分がやられて嫌なことは他人にしない、当然のことだ。
常識とされる物事程、疑わなければならない。その常識はいつの常識なのか、本当に今の時代にあっているのか。
言葉も時代に合わせて変わっていく。意味も使い方も、驚くほど動的に柔軟に変化するものなのだ。それを言葉の乱れだと嘆いたり、使い方を知らないなどと怒ったりする方が、硬直した考えだと思ったほうがいい。

ただここで気をつけなければならないのは、アップデートさえすればどんどん良くなるのかという点である。過去よりも確実に未来はよくなるといった進歩史観に陥っていないだろうか。人類の歴史は本当に更新を繰り返して良くなってきたのだろうか。
確かに生活は便利になり、暮らしやすくなったことは確かだろう。だがアップデートされたからといって正しいとは限らないのだ。後からみれば間違っていたことなど、長い歴史の中では掃いて捨てるほど存在する。
アップデートされた価値観のみを後生大事にするのではなく、既存の価値観を見直すことや、異なる価値観を尊重することも同時に行わないといけない。アップデートしてかえって使いにくくなったソフトをどれ程経験したことか。アップデートはすればいいというものではないのである。

時代の声を聞く耳を持つ。
柔軟に臨機応変に耳をすます。
アップデートすべきなのは、自分自身の凝り固まった価値観であることを忘れずに。


登場した言葉:進化
→人体最小の骨、耳小骨。ツチ骨・キヌタ骨・アブミ骨という3つの骨が揃っているのは、哺乳類だけだそうだ。全ての哺乳類はこの3つの骨を持っている。そもそも耳小骨は、進化の過程で顎関節を形成する下顎の骨の一部が頭骨に収められ、音の振動を増幅させる装置となったものだという。医学部生の時の解剖学実習1年目で、ノミの一撃で跡形もなく粉砕してしまったこの耳小骨。留年した2年目には熟練した腕で見事に剖出してみせたぞ、凄いだろう。
今回のBGM:「ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ」イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲 ピアノ演奏スティーヴン・オズボーン/イラン・ヴォルコフ指揮/BBCスコティッシュ交響楽団
→かのメシアンに「カメレオン作曲家」と言わしめたストラヴィンスキー。原始主義、新古典主義、十二音技法と次々と作風を変えていった彼は、アップデートを厭わなかった革新的な感性の持ち主だった。マイルス・デイヴィスが“最も影響を受けた音楽家”と公言しているのも、さもありなん。


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