第24回 高貴なる退廃


貴腐ワインを飲んだことはありますか。
単に高くて甘いワインだと思ったら大間違い。だてに高貴に腐っているわけではないですぞ。

昔はあまりワインが好きではなかった。全ての食べ物飲み物の好みは学習によって培われるが、その中でも酒の類は特に、ある程度場数を踏まなければそれを美味しいとは思えないものである。かつての私は当時あまり飲み慣れていなかったワインを美味しいとは思えなかった。
180度意識が変わったのは、法医学関連の学会でフランスのボルドーに行ってからだ。ボルドーといっても正確にはその近郊のアルカシォンという海辺の街でその学会は開かれた。ちなみにアルカシォンは芸術家の街として有名で、第二次大戦時ダリなどが疎開してきたりしていたらしい。フランスで一番先に牡蠣の養殖が始まったところとしても有名だという。
学会は毎日午後4時頃には終わり、その後にはバスを連ねてシャトー巡りツアーというのが企画されていた。もちろん満遍なく参加したのだが、訪れたシャトーではワインの試飲が3種類くらいずつ出てくる上に、一度にシャトーを3箇所程度回る。どれもなみなみと注がれて試飲などという量ではない。これを数日続けたら、すっかりワインに馴染んでしまった。
その中でも強烈な印象を残したのが、貴腐ワインだった。貴腐ワインというのは、貴腐状態になった葡萄から作られる極甘のワインのことである。世界でも限られた地域でしか作られない特殊なワインで、ハンガリーのトカイとドイツのライン地方、そしてこのフランスのソーテルヌのものが3大貴腐ワインとして有名だ。ソーテルヌは温度の違う二つの川が合流する場所であるため霧が発生しやすく、そのためカビが繁殖するのだそうだ。通常カビは病原菌で葡萄には害になるところが、白ワイン用の葡萄品種に特殊な状況下でボトリティス・シネレアというカビが感染して貴腐化すると、葡萄の糖度を25%以上に上げる。その干し葡萄状になった果粒の貴腐状態を一粒一粒確かめながら摘み取ってワインにするのだが、水分が極端に少なくなっているため1本の葡萄の木から1杯の貴腐ワインしか作れないという、大変贅沢なワインである。
日本に輸入されている貴腐ワインは、そのソーテルヌで生産されている中でも最高級のシャトー・ディケムのものであったりするため、貴腐ワインは高いという印象が強いのだが、実際はもっと安くて普通に飲める銘柄のものも沢山ある。現地でお手頃な貴腐ワインを飲みまくった挙句、すっかりこのワインに魅了されてしまった。ついでに見事にワイン全般のファンにもなって帰国したというわけだ。

貴腐ワインに合う食べ物というと何を想像されるだろうか。
甘いお酒なら甘いものと思われるかもしれないが、これだけ極甘になるとかえって塩っぱいものの方がバランスが良い。食前酒として出されることも多い貴腐ワインなので、スモークサーモンやブルーチーズがぴったり合う。中でもブルーチーズは、お互いの強烈な個性が火花を飛ばす勢いでぶつかりあい、とてもエキサイティングなマリアージュとなる。
貴腐ワインはもちろんとても甘いのだが、単に甘いだけではなく、複雑で精妙な味が重層的に連なっているので、時に苦かったりまた時に旨味を感じたりと、一筋縄ではいかない面白さがある。そしてこのワインは何十年という歳月に耐えられる強靭さを兼ね備えているのだ。
甘いだけでは終わらない。年月とも対等に勝負してより芳醇になる。
可愛らしさの中にも強さと繊細さを兼ね備えた、そんな貴腐ワインのような少女性を追求したいものだ。


登場したワイン:シャトー・ディケム
→言わずと知れた名門シャトー。こちらの貴腐ワインは1本5万円以上はするのでまだ未経験である。でも千円台の無名のでも十分美味しいですよ。
今回のBGM:「交響曲第5番嬰ハ短調第4楽章」マーラー作曲 Tennstedt指揮/ロンドン交響楽団(1988年録音)
→映画『ベニスに死す』でも使われていたこのひたすら美しい旋律。ねっとりと甘い蜜に絡め取られてそのまま昇天してしまうような恐ろしさがある。


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