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夏と従姉妹の息子と私

※このnoteは倫理的にグレーゾーンな欲求を書いたりしているので、苦手な方は自衛をお願いします。

同い歳の従姉妹の子どもに会ってきた。生後半年を過ぎて、まだハイハイはしていない。首は据わっているけれど、どこかにうろうろすることも無い。赤ちゃんらしさを存分に楽しめる頃合いだ。

「食べちゃいたいほど可愛い」という言葉があるが、色々な肉を食べていると知的好奇心から人肉というのはどのような味なのだろうかと考えることはないだろうか。私はよくある。

もちろん倫理的にアウトなので、そのためにアマゾンの食人文化のある村に行って…など行動を起こすつもりはないのだが、ことあるごとにそんなことを考えているうちに現代日本で唯一実現できる一番近しい方法に思い至った。

自分は女性なのだから、出産後に自分の胎盤を食べればいいのではないか…と。肉というよりホルモンとかバラエティミートというやつだが、まだ出産後の胎盤を妊婦(及び立会人)が食べる風習が残っている地域はある。

孫の顔が見たい親はともかく私自身は出産への欲求は今のところない。この国で子を産み育てることにあまり希望を持てないし、まだまだひとりでやりたいことが沢山あるからだ。しかし、この持って生まれた子宮という生命を生み出す器官を使わずに死んでゆくことに関して妙に罪悪感を覚えるのも事実であり、それが社会から私がかけられた呪いなのか、自身の純粋な想いなのか、はたまた利己的な遺伝子からのメッセージなのか、自分の中でも結論は出ていない。

自分たちだけでは子どもを成すことが出来ないカップルの代理出産をしてみてはいいのではないか。それなら胎盤を食べられるし、子宮の機能を使える…なんてことも考えてみるが、親の望みとは明らかにかけ離れる。あくまでも彼らは「孫」が見たいのだから、私にかけられた「孫の顔が見たい」呪いが解かれる時はやってこない。

そもそも、医学の進歩というのは凄いもので最近では精子同士で生命を生み出せるかもしれないという研究についてのツイートがTwitterのTLを流れていった。今悩んでいるカップルが人工子宮で体外受精や育成をして赤ちゃんを持つのも、あまり遠くない未来の話になるんだろう。

命を育むという体に施された役割が女性に必ずしも必要でなくなった時、女性の社会での人権は確保されるのだろうか。その時我々女性は、自身のアイデンティティを確立できるだろうか。

目の前の赤ちゃんの親は生まれてきたこの子をどう育てればいいのかと試行錯誤をしているだろうに、私は赤ちゃんを見ながら、カニバリズムや女性の人権について考えている。

その温度差を静かに自覚しながら、生まれてきたこの無垢な命の幸せを願う。

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