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下血そして入院/日々是徒然/2023/05

帝都・H坂病院・第七病棟
仮に入院しているところをそう呼ぶことにしよう。現実の病院に迷惑がかかってはいけない。
入院5日目にようやく、少しだけ人ごこちついて、窓の外を見る。彼方に天空塔|《スカイツリー》が、頂に蒼い光を放って空を支配していた。しかしこの位置がどの辺りにあるのか、天空塔は高すぎて、方向感覚の目印にならない。塔は正面がないデザインが施される。病院の名前は知っている、位置も地図で確認できる。でも…。どこにいるかの感覚がない。

かちかち、かっちん。防音の窓の外から聞こえる柝の音が、少し鈍く遠く聞こえる。神田明神だろうか湯島天神だろうか。首を伸ばした左側面には、点滴の針が入りっぱなしの自分の腕が見えた。24時間連続の点滴が入院以来続いている。一回目に針を挿した辺りは浅黒く腫れていて、三日に一度、場所を変えないといけない。今までも血液検査で何度も紫の痣を作って、渋谷で職務質問を何度も受けるはめになったこともある。とにかく弱い皮膚と細い血管。看護師さんたちは少し難儀している。

事の始まりは、強烈な腹痛だった。トイレに立て篭ると、嘔吐、下痢があって、その瞬間に気を失うような貧血、脂汗がにじみ出てきた。便器と格闘しながら、あ、これは少々やばいかもと思った。その後、下痢は治まったが、単独ででる液体が血になった。トイレの篭城も3時間を過ぎると、救急車を呼んで他人に決定権を委ねてしまいたいような、情けない気持ちになる。

救急車を呼ぶ前に#7119に電話をかけてアドヴァイスを受けると、救急車には及ばず、台東区の病院を5件紹介しますので、連絡して行ってみてくださいとのこと。では、AI音声に変わります…。教わったのは英寿病院(仮)戦争病院(仮)…5つの病院どこも、悪い記憶と経験があって、とても我が身を任せる気にはなれない。下血は止まず、そのまま月曜朝を待った。眠れないまま朝を迎え、隣の区の病院にタクシーで向かった。

やばいなと、そう思っても、入院のつもりはなく、いつものように文庫2冊と単行本とiPhone、noteをトートバッグに入れて、着の身着のまま向った。症状を伝えると、「あ、かなり貧血を起してますね」と、内科の看護婦さんが、僕をいきなり車椅子に乗せ、「外科に行きましょう。早く見てもらわないと。」「…」「血液検査とレントゲンを撮ります。」さくさくっと、検査を終えるとすぐに診察がはじまった。女医さんが…この病院女子率が高いな…「どうしてもというなら通院でできますが、絶食を続けないといけないので、どうですか?」と優しく宣言された。絶食なんてしたこともないし、食べるの止めるのはたぶん独りでできない。「…入院ということですか?」「その方が良いかと思います。」
そんなに悪い?声に出さないで聞いてみると、もう部屋の手配が始まった。
嗚呼、悪いみたいだ——。観念した。

見立てはS状結腸の虚血性腸炎。であるとすると、腸を休めることが治療になる。24時間点滴、絶食で一週間から10日。そこをベースに様子を見る。S状結腸は大腸癌、直腸癌の発生するところ。あとで分かるけれど、とりあえず虚血性腸炎らしき症状を抑えてから、精密検査に入る。とにかく虚血性腸炎の血が止まれば、絶食を解禁する。そして重湯から食物をとっていく。食べてまたでたら最初からやり直し。
えっ?
比叡山・延暦寺の千日回峰行の堂入り・断食を思い出した。以前、通っていた京割烹の花板さんの同級生が比叡山の事務方トップの方で、紹介してもらって根本中堂に入れもらったときのこと、終わって比叡山の話をしているときに、坂井阿闍梨のアシスタントで、堂入りをサポートしたときのことを話してくれた。
比べればなんでもない、修行だな。そのくらいに思わないと…何か見えるかもしれない。何もせず寝台に縛られて一週間とか10日は耐えらない。精神的にも…と思って覚悟した。一ヶ所にじっとしていられないのは幼稚園の頃から。

ところが。
僕はおとなしく寝台のなかでチューブに拘束されたまま、持ってきた本にも目をくれず、天井を見上げたまま、うつらうつらしながら、5時間おきに変えられる、点滴のパックを受け入れていた。先が見えなくても余り気にならなかった。頭、動いてないな…。
試しにいつも持ち歩いている、本を開いたが読みかけのカミュ『ペスト』も唐十郎『透明人間』も頭に入ってこない。というか文字からむこうを理解できる感覚がない。

「入院は初めてですか?」「そうね、あ、いえ、40年くらい前に入院したことがあります…」「何の病気で?」「原因不明で、しかも同じこの病院でした。」
40年前の同じ5月、麻布十番の天井桟敷館で行われた寺山修司の通夜、そしてその夜に、全身に蕁麻疹を出して40°の熱をだした。その頃、病気の熱を自在に落とせる技をもっていた(ダンサーが舞台中に体内水分をコントロールするためにやる技を習った)が、深夜2時頃にそれも利かなくなって、救急車の世話になった。東大病院の緊急病棟に運ばれていくときには、ストレッチャーで縛られたまま病院内の坂を引きずられて、何度も上下して一番奥らしき病棟に向って…自分がどうなっているか、分からず、昏い曇り空に月が見え隠れしているのを仰向けになって、地上すれすれを走っていくのは、なかなかの風景だ…九州帝大で癩病の少女をスケッチしたと云った竹中英太郎を思った…当直医が独りしかおらず…今とは大分体制も違っていたのだろう…血液を採られて、解熱剤を打たれて、帰された。
翌日、電話がかかってきて、緊急に入院しろとのこと。肝臓の白血球数が極端に低く、どんな軽い病気にかかっても危ないとのこと。東大病院の系列にある(医者の系列が)たった今、入院している病院を指定された。
原因不明のままで、隔離病棟に収容された。熱が上がってきた。自宅なら水分をとって熱を落とすことも可能だけれども、ここでは自由に水が飲めないのでできない。思い余って医者に、水を大量にくれるか、熱を落としてくれるかどっちかはっきりしてくれと、語気強く云った覚えがある。変わった性格していた。今思うと。「は?」医者はあきれ顔だが解熱剤をいってくれた。

その夜、自宅に寺山修司の霊がでたらしい。部屋にクラック音がして夜の空気が揺れた。慌てて病院だからそちらへと告げると、音は止まったと。病院には寺山さんはこなかった。ちょっと淋しい気もしたが、来たらほんとに持っていかれたのだと思う。寺山修司は肝臓癌で死んだ。僕も同じく肝臓の不明の不調で入院している。通夜には出席したが、葬式には出られなかった。

隔離病棟の原因不明部屋はなかなか面白くて、牢名主みたいな人もいて、毎日の血糖値を聞きながら抜け出して大福を食べに行く、大酒飲みの職人とか、サラリーマンだけどやり手の営業マンが、お茶の水の駅で貧血で倒れて担ぎ込まれていた。この人はすぐに元気を取り戻して、退院すると大騒ぎをしていた。
その夜、深夜近く、順天堂大学から白衣も着ない一人の若い医師が僕らの部屋を訪れた。何となく他人事のようにしてぼーっと見ていたら、ベッドに歩いてきて、右足と左足をもって、どっち強く持っている?(医師が)と聞かれた。強さを変えて何度も繰り返した。その度に、右、とか左とか、同じとか答えていた。
「大丈夫だと思うけど、髄液検査を…」と云って、廻りでメモをとっていた、H坂病院の医師たちは、——夜中に集合して、『白い巨塔』の財前五郎(田宮二郎)回診状態になっていた。
連れてきた順天堂大学の助手が、大丈夫痛くないよと言いながら、僕の胸に錐で穴を開けて、注射器を入れて髄液を採取した。どん!という衝撃が胸に来て、うっとうめいた時には採取が終わっていた。痛いを越した衝撃音だった。ソニーのバイトで、ブラウン管修理をしていて万ボルトに感電(100ボルトを上げているので生命の危険はない)したときのことを思い出した。「ごめんごめん、身体が緊張すると採取し難いのでね。痛かったね。麻酔しても抜く瞬間は痛いんだよ。」
「ふう」と溜め息をつくと、白衣なしのちょっと腕のいい人がもっているヤクザ感もある医師は次々と、患者に声をかけていた。院内で解決のつかない病気に対して、関連の病院からスペシャリストを呼んで、判定してもらっていることが後で分かった。
眩暈で入院した元気サラリーマンの、足をもって、僕にやったように、どっち強く持ってる検査をしはじめた。一二回、やった途端、髄液検査してと助手に言った。僕は胸から摂ったが、その人は、腰から髄液を抜かれていた。「大丈夫ですよね。こんなに元気ですよ。」と強気の姿勢を変えなかったが、「ちゃんと検査しないと危ないよ」と、静かにそのノン白衣医師は行って、足早に部屋を出ていった。回診メモ医師連は慌てて後を追った。
翌日、そのサラリーマンは退院どころか東大に救急車で搬送されていった。早耳の職人おじさんに聞くと、骨に癌か、血液に癌か、リンパに癌かとのことだった。重大疾患を発症していたらしい。足を触るだけで病症の有無が分かるんだ…。吃驚した。
僕の方は、だけれども病名は出てこない。検査結果は問題なしらしい。

ある日、隣のベッドが空になっていることもあった。
職人おじさん…なぜかもの凄く可愛がってくれた…お前、面白い奴だなと…が、「ICUに運ばれたんだよ。終りだな…」「そうなんですか?」「俺も何度もICUに入ったけれど、出てくる意志をもたないと出られない。酸素濃度が高くなると、脳が壊れるんだ。酸素吸入はしないほうが好い。おれはそこで少しでも回復しはじめたら、マスクをとってな、一般病棟に戻せと云うんだ。そうすりゃ助かる。気力が無くなったら終りだ。」
「へー」「あいつはな…」と、空のベッドを指して、「生きる気力が足りない。家に帰りたくないって思っている。危ないな」
そうして隣の患者は戻ってこなかった。

原因が不明なので、本を読んだりゲラに朱入れしたりするのは、許されていて、ベッドで夜想『暗黒舞踏』のフィニッシュをしていた。先行きが不安なので編集後記がとても暗い。ある日、職人さんが消えた。看護師に聞くと、ICUに居るとのこと。
あ、出なきゃ。そう思って、頼み込んで半ば強制的に退院した。体調が変わったら必ず病院に来るようにと言い含められて。

40年前にこの病院に居たことを、居たとだけ伝えて、あとはにこにこしていた。看護師は40年前まだ生まれていないだろうから。
触診とか聴診とかは、今でも重要な検査の方法だ。触診して聴診して、僕の大腸含めた腸全体が萎縮していると云われた。全く動いていないので、水を一口飲むと、ストンと下に落ちてトイレに向かうことになる。え、こんなに速く腸を通過するのか? 腸がただのチューブになっているということだ。そうだ腸=脳なのを忘れていた。腸が大事ですよと、本の受け売りをしながら、腸=脳であることを意識できることはこれまで余りなかった。
今なら少し掴めるかもしれない。ただし今は、大腸が動かない感じが脳に反映している、その感じだけだ。全体に腦作業全般が滞っている。腸の本を改めて読んでみよう。
もし退院できたら。
虚血性腸炎が起きる理由は色々だけど、うんと若い人には起きない。つまり加齢とか、成人病とか、免疫が落ちてるとか。まぁ老人は気を付けないといけない病気だ。いよいよ来たなと覚悟が決まる。

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