音楽とグッドミュージック・ステーションについて考える [閑話 #1]

 こんばんは。コロナ禍によってひとりでいる時間が増え、何か始めないとという衝動に駆られ昨年の5月から始めたこのnoteも、気付けば1年半経ちました。

 グッドミュージック・ステーション(以下、GMS)は、#0も合わせれば22回記事を書きまして、中には1000を超えるプレビューがついた記事もあります。ありがたい限りです。

 しかし、#16の記事を境に、それまで1ヶ月3記事くらいをキープしていたのが、約3ヶ月おきに更新するようになり、もちろん読んでくれる方も減りまして、さらに#20からは書き方を意識的に変化させました。

 今日は、いつもの雰囲気とは変えて、この1年半で変わった私の音楽の捉え方、それによって変化させたGMSの書き方についてまとめていきたいと思います。

(上の動画は本編には関係ありません。私の音MADとの出会いです。面白フラッシュ倉庫レベル90って感じでいまだに好きです。)

GMSは、楽曲の素晴らしさを専門的になりすぎず、カジュアルに飾らず等身大で紹介するというテーマで始めました。当初は、音楽の良いところをとにかく紹介し、そこから考察できることを書いていました。

#5くらいまでは 、今でも好きな記事なのですが、#6あたりから私が感じたことを詳細に書きすぎて、この記事を読んで楽曲を聴いてくれた人の解釈の幅を狭めてしまうのではないかという悩みを抱き始めました。

 そして、#15、#16(この2つはGMSの中で人気記事のTOP2になります)で、説明的になりすぎているのではないかという私の中の問題意識がこれまでにないくらい膨れ上がりました。

音楽というのは、言葉だけでは表現できない感情を、音を使うことによって表現可能にしている芸術なのに、それを文章にするのは楽曲の持つ芸術性を害わせてしまっているのではないか。

 そして、少なくともこの問いに対して自分の中で納得のいく答えが出るまで書くのはやめようと思いました。

 ここから、私が音楽をどう捉えているのかについて、書いていこうと思います。

 私にとって音楽とは、少し難しい言い方になってしまいますが「深層概念を表層に引きずり出すために必要な道具」です。何かモヤモヤするという感情が、音楽によって自分の体内から外に出て、それがどんな形をしているか見ることが出来る状態になる。このような経験をさせてくれるのが、私にとっての音楽です。

 これは、哲学に近いのかもしれません。哲学は、「問い」を立てることでモヤモヤの輪郭を捉え、悩み、考える学問だと私は認識しています。(違ったらごめんなさい)

 だから、私にとって素晴らしい音楽は、表層の言葉だけで表現しようとしても解像度が低くなってしまうもので、それ故にその人自身の人生の歴史を入れ込むことができる余白を十分に含んでいるものです。

「歌う」と「訴う」は同じ語源を持ちます。「うた」というのは、宗教的にみても、神とのコミュニケーションとしての側面があります。深層概念である神に対してアプローチするために、言葉も変化し、そこにメロディも足して特殊な言語にすることでそれを可能にしようとしたのではないかと私は考えています。

 つまり、うたにおける歌詞というのは、読むだけでは十分に理解できず、曲を聴いても表層的な言葉で解説しきることができない。さらに言えば、それが出来てはいけないのではないかと私は思っています。

 だから大いに感覚的に作るべきだし、文法がおかしいなんて問題はどうでもいいのだと思います。そもそも文法自体、言葉をその地域で重要視されている順番に並び替えたものに過ぎないと私は考えています。

 英語では「ペンがあります、机の上に。」という順で並べ、日本語では「机の上に、ペンがあります。」と並べます。「ペンがある」と「机の上にある」このどちらを重要視するか。それだけの問題だと思います。

 話は逸れましたが、私にとっての音楽とは簡単に言えば「モヤモヤを言葉では説明できない形とはいえ、体内から取り出してくれるもの」です。

 しかし特定のモヤモヤを取り出すための音楽が形式的になり、世の中に増えてくると、それが表層の概念で説明できるようになっていってしまう側面もあると思うのです。

 たとえば、特定のモヤモヤ=「エモい」、取り出すための音楽=「Lo-Fi」という風に。こうなると、Lo-Fiは形骸化し、深層概念を引きずり出すための音楽としての地位から落ちてしまう。

 私がGMSで取り組んできた音楽の素晴らしさを言語化しようという試みは、素晴らしい音楽を形式化させることに図らずとも加担しているような気がしたのです。

 そして#20で大きく書き方を変化させました。

 私がその音楽に感じた余白をどのように埋めたのかを、理由付けせず、一般化せず、そのまま書こうと考えました。要は、その音楽に対する文章を用いた二次創作の形で紹介しようと思ったのです。

 記事を読んで、この音楽のことをわかった!と思って欲しくないのです。しかし、このGMSも音楽と同じで、読み手が感じたことに干渉してはいけない。作品は私の支配圏から逃れ、開放されていなけれならないと思っています。

 だから、私ができるのは、そう思わせる記事を書かないことです。そして私が目指すべき記事は、その記事を読んだことによって新たな問いが生まれるような記事、さらにそれが深層に達することができるものであれば楽曲の芸術性を害わず、相乗効果的に良いものになると私は思っています。

 この試みは、読み手にとってどのくらい面白いものかはわかりません。しかし、確実に読んでいる人は減っていることも事実です。

 私の文章力が問題なのか、記事としての魅力を失ってしまう内容なのか、それはわかりませんが、少なくとも今までの悩みからは解放された気分でいます。

 こんな私的で意味の捉え辛い文章を誰がここまで読んでくれるのか、書いている今は全く想像がつきませんが、もしよければここまで読んでくださった方も一緒に音楽について悩んで、考えてみませんか。

 ここまでただの音楽好きのモヤモヤに付き合って読んでくださった方、ありがとうございました。これからも音楽に対して真摯に向き合って記事を書いていきますので、暇があれば読んでください。

#日記 #エッセイ #音楽 #日常

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?