見出し画像

呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする

夏目漱石の言わずと知れた名作「吾輩は猫である」の一節にこんな言葉がありました。夏目漱石といえば、月の輝く夜に「月が綺麗ですね」という言葉が愛を伝える和訳としてTwitterで飛び交うので、そういった印象が強い方が多いのでしょうか。けれども私にとっては、タイトルに書いたこの言葉がいっとう好きかもしれません。私は漱石の、頑固で強がりで傲慢で、けれども臆病で気弱で繊細である姿がなんとも好きです。

あまり文豪や歴史に詳しくないのですが、学生時代に「こころ」を読んだ際に「こんな文章を書ける人は他にいない!」と、とても魅力的に感じました。山月記や羅生門なども教科書で読むことがあり、それなりに面白くは感じつつも、なんというか、漱石の綴る言葉は私にとって異色でした。

これからの世は、学歴社会とは少しずつ遠ざかっていくのだと思いますが、私は変わらず学があってちょっとプライドが高くてナルシストな人間が好きです。そういう人間は、自己愛が強いだけで、同時に対外的には自分に自信のない人も多いのです。そういったちぐはぐなところが、なんともかわいらしく思えてしまいます。

漱石は東京帝国大学の首席だったと記憶しています。過酷な家庭環境の末に自分なりの誇りがあり、負けず嫌いで努力しているところに、時折見える弱さが、その人の魅力を強調するような感じがします。「天才ではないけれど努力で這い上がってきた人間」はとても魅力的で、そういう人が結果を出した瞬間の革命感がとてもかっこいいです。努力で身に着けたカリスマ性は、とても人の心に刺さるような気がします。

本から見るに、漱石は気難しい人間なのかもしれません。ですが、生い立ちを見れば、神経衰弱で攻撃的な一面があったことも免罪符になるような気がしてします。以前俳優の長谷川博己さんが「夏目漱石の妻」というドラマで漱石の役を演じており、もともと好きな俳優さんでしたので殊更好きになりました。自分の心に根差した努力が、空回りで不器用で、周りから多少非難されようとも、ただがむしゃらに芯を貫いている努力家な人間が好きなのだと思います。そうして、駆け抜けるような人生は多少傲慢で非情な面もないと成り立たないと思いますから、その性質をもつ一方で冷たい人間になり切れない不器用さ、隠しきれない情の深さを知るエピソードも聞くと愛しく思うところです。

こういう人に惹かれていると感じたのは何も歴史の偉人だけに思うことではなく、この基質を持つ方で好きだと思った人物は漫画にもいましたし、今配信等をされているような活動者の方にもお見受けします。(ただこれらは書に残る人物像から思うことで、現実に隣にいたら好いているかというと首を傾げるような気もします。)

ここに感じる愛しさは、恋しく思うという気持ちとは別のもので、一種の勇気を与えてくれるようなものです。
「努力は報われる」という一言には終結できない複雑性が絡んでいます。挫折、挫折、挫折、のち成功、挫折、くらいが真実味があり、一見、世に知れてしまえば輝かしい人も、それらの挫折を隠して生きている人の、なんと多いことか。見かけ上には見えないものを人はみな抱えているという意味で漱石は「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする 」と漏らしたのかもしれません。何度挫折しても前に進み続けることが、どれだけ孤独で、困難で苦しかったものだろうと、今ある精神がどれだけの傷の上に作られたものであろうかと想像すると、どうしようもなく心がじんわりとするのです。こういうのを雑草根性というのでしょうか。踏まれても踏まれても、折れない心です。そしてその後にちゃんと花を咲かせる。彼らは倒れる寸前まで足を前に踏み出すことをやめず、私にとっては、それが「美しい人生」だと感じます。

泥臭く、というのは今は少し違うのかもしれませんが、歴史に学ぶそういった精神はこれからも一つの美徳として受け継がれ、形は違えど継承されていくのだと思うと、生きる時代を異にしても在る美しさは変わらずずっとそこにあるのなら、私も変わらず敬愛していこうと思いました。

私たちが今残すものはそのための言葉であり、絵であり、音であるから、時代を超えていく。

YOASOBIの大正浪漫でも聴いてこようかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?