渦を描く梨の花【三】

洞は、再びシンと静まり返る。

その静謐を破り、零れ落ちるように大蛇の呟きは響き渡った。

『しかし我は、もう今世に現れるべきではない。神の在るべき時代はとうに過ぎ去った』

神代は終わり、かつてその姿を顕していた神は媒体を隔てて世に関わるものばかり。

そんな世に、大蛇ほど巨大な神代の生き残りが顕れるわけにはいかない。

「その通りだな」

男は、少し肩をすくめた。
どうしようもない、とでもいうように。

「神はこの世の人間にとって、もはやただの伝承だ。今、あんたほどの大蛇が眼前に現れれば、それは吉兆にも、不吉の兆(きざし)にもなる」

『ならば、我は再び眠るとしよう。我は人を脅えさせるのは本意ではない』

言いながら、大蛇はゆっくりと山梨の精に頭を近づけた。

山梨の精に怯えの色はない。
空気中から伝わる大蛇の意思に従い、おずおずと大蛇の頭に手を伸ばし、触れる。

『わが新たなる友に贈るのは、我が最後の祝福なり。良き豊穣の力なり。よくよく、厳しき世を生きよ』

「ぬしさま……」

小さな山梨の精に、力を送る。

かつて人々に豊穣をもたらした、山神の最後の力を。

それは、山梨がこれから美しく長く育ちゆくのに、十分な生命に変わるだろう。

静けさを湛えた瞳で、それを見届けた男は、すっと暗闇の中の一点に向かって指をさす。

「大蛇。かつて神と呼ばれた者たちが再び現れるべき時は、まだ来ない。それまでは、今までよりも穏やかに眠るといい。ただし、今度は星が見える場所がいい」

謡うようにそう告げる男の指の先、真っ暗な洞の中に、一点の眩い光が生まれた。

虚無を現す洞の中に、色鮮やかな生命の風が舞い込み、踊る。

さぁっ、と、内面の闇が晴れ渡ってゆく。

「こんな辟易するような暗闇は、豊穣をもたらす神のいるべき場ではない。あんたのいるべき場は、より美しく、より静かな場所でなければ」

大蛇はそれを見ながら、うっとりと目を細めた。

『おお、おお、なんと懐かしい、なんと芳しい山の香であることか』

大蛇の鋭い嗅覚は、感じている。

今にも芽吹かんとする若葉の香りを。
今にも弾けようとする蕾の香りを。

天に伸び行く木々の香りも。
静かに水を含む苔の香りも。

――そして、何より、揺蕩う水の、甘く麗しい香りが、強く大蛇を惹きつける。

ずずずずっ、と音を立てて、大蛇はその巨体を水の香りの方へ向かわせた。

その後ろを、主を慕って止まない山梨の精の子が、危なっかしい足取りで嬉しそうに追いかけてゆく。

遥か遠くへ。時を超えて、在るべき場所へ。

「穏やかに眠るといい。心優しき山の神よ。今はただ、何も思い煩うことなく、若々しい山梨の香りに包まれて」

「人は随分、手前勝手な生き物だが、あんたの優しさを忘れ去ることはないだろう」

男は、彼らの姿にどこか懐かしそうに目を細めると、ふっと、その姿を消した。

洞は、深い水の中を思わせる深い藍色の輝きを放つと、ゆっくりと役目を終え、消えてゆく。

・ ・ ・

その山は、観光地として有名だった。

清涼な水を湛える広大な湖と、その湖に寄り添うように咲き誇る、一本の山梨の巨木。

花の季節になると、山梨の花は湖の上に花筏を作り、一面がまるで地上にできた星空のように見える。

そこには、神が住まうという。

大いなる蛇の神。水の神。
梨を捧げものとする、不思議な伝承を持った神。

人々は、その神に今もなお、願いを聞き届けてもらおうと祈る。

穏やかに、心優しく、無垢な願いを、蛇の神に祈り続けている。

・ ・ ・

大蛇は眠る。

深く静かな青い湖底で、赤玉のような目を固く閉ざしている。

山梨の花が散る。

きっと、これから命の甘味に溢れた大きな実をつけることだろう。

大蛇が微睡み見る夢は、いつも甘く優しい山梨の香りに包まれている。




一話目はこちらから


読んでいただきありがとうございます。 頂いたサポートは、より人に届く物語を書くための糧にさせていただきます(*´▽`*)