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渦を描く梨の花【二】

『そなた、なぜ、そこに立つ。我を愚弄するがためか』

びくり、と山梨の精の体が強張った。

大蛇の言葉を否定しようと、小さな体で力いっぱい横に首を振る。

しかし、忘れかけていた憤怒が再び燃え上がった大蛇の目に、山梨の精の姿は映らない。

どろどろとした、灼熱の炎のようなそれは、大蛇の視界を真っ赤に染め上げた。

巨大な頭を持ち上げ、ギラギラと怒気を孕む瞳を、己より小さな影たちに向ける。

しゅぅぅ、と、怒りに感化された毒の吐息が周囲一帯に広がってゆく。

洞は紫と黒の不吉なとぐろを巻いて、侵入した者たちを締め上げようと、その空間を縮めてゆく。

『我は、人への怨嗟を飲み込んだ』

山梨の精が、本能的な恐怖に体を強張らせ、隣にいる男へと体を寄せる。

『友を失った哀切を飲み込んだ』

毒の吐息がより濃くなり、色が付き始める。周囲に、命の欠片さえ存在を許さない。

『しかし、それでも飽き足らぬか。災厄をもたらさんとする、この想念を暴こうとするか』

ずっとずっと不思議だった。

なぜ自分はあの時、人を祟らなかったのか。

――憤怒は、こんなにも呆気なく噴き出すほどに自分の内側に溜め込まれ、長い時をかけて内側を蝕んできたというのに。

それを、必死で抑え続けたそれを、この小さな者たちは、暴きに来た。

封印した過去を想起させる山梨の精と、それを連れてきた男以上に、この憤怒の矛先を向けるのに打ってつけの存在がいるだろうか。

もはや周囲は、地獄の様相と化している。

『わが友ではなき者よ、姿だけが似たものよ。そなたは我が憤怒を望むのか』

「ぬ、ぬしさま」

だがそれなのに、生まれたばかりの精である山梨の子は、まだ生きていた。

男に至っては、命が潰える危機感はもとより、焦燥感さえ見当たらないほど泰然とした様子だ。

だが、そんなことは関係ない。

大蛇は吼える。

かっと見開いた赤玉の目から、血色の涙を流しながら。

『いらぬ。我に友はもういらぬ。我と共に居るものなどはこの世にいらぬ! 失せよ、我が前から!!』

「なるほど。それがあんたが眠る理由か」

大蛇の毒と哀切にまみれた咆哮と、壮絶な怨嗟を受けてなお、その男は大蛇の言葉に静かに耳を傾け続けていた。

その時、大蛇は気が付く。

激しい烈火のごとき憤怒の気が、男の前では凪いだ風に変わっていることに。

濃厚な毒の吐息は、男の周囲で清涼な空気へと変わり、山梨の精を守護していることに。

淡い風に前髪を揺らし、小さく儚い山梨の精をかばいながら、男は静かに告げた。

「友を失った喪失と、人に向けた絶望に蓋をするため、自ら幾星霜の時を眠ることを望んだ。……なんと、心優しき神であることか」

いいながら、男が少しだけ愉快そうに微笑んだ、気がした。

「案ずるな、大蛇。この世は、それほど見捨てたものじゃあない」

その、たった、一言で。

憤怒が、呆気なく霧散する。

――男が、かつて山神とさえ謳われたモノの大いなる気を、ただ「ないもの」としてあっさり消し去ったのだ。

大蛇の内側で荒れ狂い、周囲にまき散らされていた怨嗟も跡形もなく消える。

その代わり、大蛇の内側には眠っている時よりなお平穏な静寂が波紋のように満ちてゆく。

男の操る、言霊によって。

「この山梨の精は、ずっとあんたを待っていた。小さな種から芽吹き、再び相まみえる時を待っていた」

小さな山梨の精は、怒りを収めた大蛇の目をまっすぐ見る。

まだ話し慣れていないのだろう。つっかえがちな声で、必死に大蛇に訴えた。

「わ、わがぬしさま。ながい、ねんげつをかけて、このみをそだててまいりました。わたしは、あなたのともでは、ありません。それでもずっと、ずっとおまちしておりました。このときを」

大蛇は、言葉を失った。

自分の知らないところで、待ち続けたものがいることが信じられなかったのだ。

この驚愕に追い打ちをかけるように、男の声が耳に届く。

「救いはここにあるぞ、大蛇」

友と同じ香を持つ精が、必死になって訴える。

自分は、誰かに想われていたのだと、それを必死に告げるのだ。

自分は、忘れ去られた存在ではないのだと、それを確かに告げたのだ。

大蛇は、目を閉じた。
内側の静寂に、耳を澄ませるかのように。

『我が毒を受けてなお、立ち続け、我を待ち続けたものよ。……なるほど。我は、救われたかもしれぬ』

気の遠くなるほどの時を眠っても、山梨の精の子をまみえても、人から疎まれた事実と、友を失った悲しみが癒えることは、永遠にない。

……ただ。

忘れられていなかった。自分は想われていた。

……ただ、それだけのことで。

ほんの少しだけ、大蛇の内側を塗りつぶしていた虚無が薄らいだ気がした。

救いは、ここにあったのだ。




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