人魚の娘
川を見るのが嫌い。海を見るのが好き。そう気づいたのは、電車の中で通る大きな川を見ている時だ。
私の知る川は、汚かった。
感情を洗い流すこともしてくれず、ただ、街の穢れを海へと流してゆく。そんなイメージがわいてしまっては、どうしても川を好きになれなかったし、今もなれない。
では海はどうして好きなんだろう。きっと、人間にはない広大さが好きなのだろうと思っていた。海洋は総じて良いイメージを私に齎す。たとえ本当に、中が美しくはなかろうとも。
私たちは、海に救済を求めている。そこに母性を求め、美しさを求め、そうあってほしいとこいねがう。
海の傍に、私は立った。
人間のそんな感情なんて気にしない海は、美しかった。ざぶん、と音を立てて、私の意識は海の底へと潜り込む。
まるで、人魚のように。
青い真珠の首飾りが、きらりと海の中で光る。
私は人魚の血を引いた娘。だから、私は時折、海に還りたくなる。
いや、これはただの言い訳だ。
人魚という人外の存在など当の昔に薄れてしまい、もう私の体に人魚であったことを示す鱗はなく、ましてや人外の特徴もない。
けれど、私は先祖である人魚と出会った。「人ではないもの」を専門とする探偵事務所で、私はとある問題を抱えていたところを、【彼女】に解決してもらった。
あれ以来、私は先祖が生きていた海を見ることが多くなる。美しい海は人を呼び、シャッターを切る人でいっぱいになる。
海の中から、私はその人たちの姿を見る。視界は蒼く澄み渡り、感覚は研ぎ澄まされて、一切の邪魔もなく、海を通じ、膨大な人の心に触れてゆく。
私は、その中でうずくまる。膨大な想いの海に、身をゆだねる。
それは、赤ん坊が羊水の中で眠る姿に酷似していたが、彼女を見なければ誰もそれを分からない。
私は、タダの人間だ。ちょっとだけ人よりも海の成分に近いだけの人間だから、この想いの総てに応えることはもとよりできない。
海に私が求めるのは、母の腕に抱かれたい子供と同じ感情だ。
生きるのがつらい時、仕事で失敗してしまった時、人の気配に疲れ果ててしまった時、私は海に抱かれに来る。
しかし、それに甘えてはいけない。
きらり、胸元に一粒の青い真珠がきらりと光る。ぎょろりとした魚の目のようだな、とぼんやり想う。
もはや言葉を交わすことのできない海は告げる。人魚の血を引く娘に、海に何かを求めてやってくる人に、心を広げようと海原に心開く人に。
たった一つ。帰っては再び戻ってくる白波のように、ただ一つの想いを人々に贈る。
人魚の娘にも、贈る。
――――激励を。
ふと、穂香は我に返った。波の音が響く夕暮れの海岸は、あまりに美しい夕日を求めてシャッターを切る人が絶えない。
私は、今日も海から離れて生きてゆく。もう私の生き方は、人の喧騒から逃げることはできないのだ。
そう決意した彼女の背中に、低く美声と言っても過言ではない声が投げかけられる。
「……もういいのかい? 里帰りは」
竜之助と呼ばれる「人以外」の相手をすることの多い探偵であり、穂香の上司でもある男。無精ひげはぼうぼうで、シャツもくたくた、羽織っているコートもぼろく、しかも未だに紙煙草を吹かしている見目麗しくない背の高い男。
けれど、普段眠たそうな顔しか見たことのない男の目は、ジワリと染み入るような優しさを滲ませていた。
多分、それは、穂香が泣いていたからだ。
穂香は人の喧騒に耐えられない。人外の血のせいか、持ち前の鋭敏な感覚のせいか、原因はわからないが。
声が響く。音が響く。空が狭い。空気が悪い。
そんな中で生きるのは、正直、辛い。辛くてしょうがなくなると、穂香は海へと逃げ込んでしまう。
ただ、そのたびに海に押し返されるのだ。お前のいる場所はここじゃないのだよというかのように。
青い一粒の真珠が煌めく胸の内に、白波のように言葉が響く。
―――激励を。
「もう大丈夫です。所長」
「だったらよかった。—―さて、行こうか」
涙をぬぐいながら強がる穂香に、竜之助は慰める言葉もなく「現実」へと戻る言葉を投げかける。
穂香は、胸元に輝く、先祖が残した真珠を一度だけ握りしめ、彼の背中を追う。
――私は、現実に、生きていく。
海の青さを知る私は、返ってきた白波のように、人の心に寄り添いながら生きていくことを、選んだ。
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