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はじまり

わたしは、アガベというとげのある多肉植物を販売しています。


カフェで待ち合わせしてアガベを売っていた時期がありました。店舗を持っていないので、現物を見せて販売する方法が他にありませんでした。カフェといっても家の近くにあるチェーン店のハンバーガー屋で、ブレンドコーヒーだけを頼むのでした。すいている店でした。植物を広げても周りの目を気にせずにいれます。混んでいても家族連れが多く、その喧騒の波に溶け込むことができました。わたしたちのあいだにある白いテーブルには、いつも植物が置かれていました。汚さないようにと紙を敷いても、立ち去るときには鉢についていた細かな土の粉塵がこぼれていました。濡らしたナプキンで拭いてから帰るのが習慣でした。
直接会ってやりとりをすると、人柄に触れられる。S N Sよりやっぱり対面のコミュニケーションが一番だ、そんな言葉を聞くことがあります。意味としてはわかるのですが、どうしても別の面も感じてしまいます。それはむしろ直接会うことを通して、人間よりも植物そのものにさらに意識が向くということです。そのことを記したいと思います。


何よりもまず、相手とのあいだに物理的に植物があると、会話が絶えることがありません。内容はすべて目の前にある植物についてです。相手を信頼することより、丁寧に接することより、まず植物が相手とわたしとのあいだにあることによって、会話が始まってしまうのです。初対面の方とも自然に時間を過ごすことができるのです。人柄がよいのではありません。それはわたしだけはなく、残念ながらお互いさまです。互いの相性のおかげだと思うのは錯覚で、わたしたちは植物の話をしているから仲がよいのです。


あいだを取り持つ、ということに似ていながらも少し違います。おそらくわたしは、うまく人と話すことができない性格を乗り越えることが今もできていません。かといって植物に救われたという話でもないのです。植物の力を借りて、人と話ができるようになるくらい自分は成長した、と伝えたいのではありません。自分と向き合うあれこれを先延ばしにしている、というだけだからです。
テーブルの上に置かれたアガベについてわたしたちは話をする。相手はわたしに関心のすべてを向けることがない。わたしも相手に関心の全部を差し出すことはない。相手についてではなくアガベについて話す。まっすぐ目を合わせて話し合うこともできるし、目を逸らしても不安に思わせることはない。わたしたちは互いを透かして植物を見ることができる。植物をあいだに置くことによって、自分自身と向き合うことを避けさせてくれます。


こう表現すると、まったくもってよくないことのように思えてきます。自分の弱さから逃げているだけではないかと。しかしそもそも植物は自分というものを持っているでしょうか。子株を吹いたり、分頭したりして株が自然と分かれていく彼らは、自分という意識自体、ないのではないでしょうか。だとするとわたしたちは人間としてそこにいたのではなく、植物に近づいていったのかもしれません。根を地中の奥底に伸ばし、葉を太陽に向かって伸ばすことで、自分の内面に閉じ込もることから解放されていく感覚を味わっているようにも思えます。こぼれた土もわたしたちの身体から落ちたものかもしれないのです。

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