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拝啓。ふたりの友人へ。

なにか書くことを自分に課したものの、書き続けるのはむずかしい。秋生まれの3人が並んで肉を食らいながら、じゃあお互いに手紙を書くつもりで書いてみましょうかと始めた、これは自主トレです。初日のテーマは、「他人」。


2021/11/11(木)青葉一通目

私の古い記憶のなかに、猛烈にわがままを言った日のことがあります。

ピンクの生地に白い水玉、襟元にはサクランボの柄がついているフリフリスカートのシャーリーテンプルのワンピース。

あれはきっと幼稚園の頃、両親に連れられて行った洋服屋さんで出会って一目でピンときて、幼い私は、どうしてもあれが欲しいと駄々をこねました。値段までは把握していないけれどそこそこ高かったのでしょう、両親にダメだと言われたものの火がついてしまった私は相当な時間泣きわめきました。そして、ついに根負けした両親にワンピースを買ってもらったのでした。

でも派手なピンクのフリフリを着る機会もなかなかなく、その上あまり自分には似合っていなかったから数回着ただけでした。せっかく買ってもらったのにちょっとバツが悪かったことも覚えています。


そんな悪癖は、大人になっても残念ながら治っていません。とあるイベントの登壇者が来ていたワンピースに、またピンと来てしまうことがありました。
ですが、登壇者は知り合いでもないのでどこのブランドのものかもわかりません。その日のうちに登壇者のSNSを探し、投稿を遡って該当するブランドにたどり着き、昨年売られていた商品でとっくに売り切れていたことがわかった時には泣きそうでした。
どこかで売られていないかネットの海を徘徊し続け、最近やっとメルカリで売られているのを発見して手に入れました。3年越しです。

ピンときたときは、どうしても、どうしてもそれが欲しい。諦めが悪く、手に入れないと気が済まないという気性があるのです。

この前は仕事の途中何気なしにInstagramを開き画面をスクロールしていたら憧れのブランドMameKurogouchiのコートの写真が流れてきました。私の家賃の2倍の値段がするそのコートが気になって仕方なくなり、仕事を早く終わらせ伊勢丹まで走りました。買えないわけではないがかなり心細い蓄えをさらに減らすつもりなのかと逡巡し、閉店の音楽が流れはじめたこともあり諦め家路に着いたのですが、この先何年も着ると思えば買ってもいいはずと、翌々日改めて店に見に行ったらお目当の色だけ売り切れていました。

無駄遣いしてはダメだと天が差し向けてくれたことだろう、これ以上貯金が減らなくてよかったと自分に言い聞かせながらも、一度手にしたのに購入しなかったことを猛烈に後悔し始め、もうあのコートは一生手に入らないだろう、なぜ私ははこの値段の服を躊躇なく買うことができなかったのだと自分の稼ぎを憂いはじめ、仕事の能力のなさや要領の悪さを恨み、どんどん悲しくなって行きました。目が潤んでくるほどです。

もしコートを買えたところで手にいれた喜びは儚くて、大金を使ってしまったことに落ち込み、いくらお気に入りの服を着ていたって、私のことなど誰も見ていない、気にしていない、そのことにとことん虚しくなっていたであろうことも容易に想像がついてはいるのですが。

虚なまま伊勢丹のエスカレーターを降り、向かいのユニクロに目をやると、店頭には、かのコートの10分の一以下の値段でたくさんの種類のコートが並んでいます。昨年の冬は出かける機会も限られていて、ユニクロのダウンばかり着ていました。間違いなく暖かくて、軽くて、便利でした。私にはこれで十分だし、お似合いだ、これでよかったのだ。そう言い聞かせながらも、やっぱり本当はまだ悲しいのです。あのコートが欲しかった。


察しの良い二人ならおわかりでしょうが、私の恋愛の仕方がこれと一緒なのです。ビビっときたら他の悪条件が見えていても「これがいい」となってしまい、手に入れられないのが許せない。

逆にスペックに非の打ち所がなくっても、例え私に好意を持ってくれていそうであっても、自分がピンとこなかった場合手に入れてもあまり喜べないのです。喜べないだけならまだしも、ぞんざいに扱ってしまったりする。ユニクロのダウンであればそれでもいいかもしれないけれど、相手は生身の人間であることくらい私にもわかります。傷つけたくもない、深く関わらなければこちらが傷つくこともない。私は、自分から好意を持った人以外に、心の底では関わりたくないのだと思います。

二人に手紙を書くために、他者について私がどんな目線を持っているのか意識して過ごしていると、「他者」は「私を評価する存在」ということが私の辞書の項目の一番目にあると気がつきました。私が他者に介入したら評価を受けることになると反射的に頭をよぎるので、友人関係であっても本当は、誰かをご飯に誘うのも、お土産を渡すのも、メールの一本を打つのも本当は怖くて仕方ありません。評価されるとわかっている仕事のような場所なら覚悟も対策もできるけれど、評価基準が変化し続ける人間関係は不得手です。だからコロナ禍はわざわいでありつつも、私にとってはありがたいことでもありました。他者との距離が物理的に取られ、介入することも、されることも減ったからです。

人に介入することを避けている私のことは、きっと他の人から見れば人に興味がない人に見えるのだろうなと思います。それはきっともったいないし、こんな態度のツケは、欲しているのにこの歳になってパートナーがいないというところに出ているのだとも思います。

私が紫原さんから「他の人について書いてみては」と言われるのは、文章を書く中で他者の中に自分と通じる部分を見つけたり、良さをみつけていくことで一目惚れのような関係の始め方以外も訓練しては?と言われているのだと私は思っています。

きっと足りていないのはそういう目線なのだと思います。恋愛と結婚は違うから、この歳にもなれば現実的な生活を送っていくパートナーを探して選んでいくことを重視すべきという考え方も知っています。ときめきに振り回されるよりも、相手に介入し介入される手応えを感じながら生活を送っていくほうが真っ当であるべき人間の姿なのでしょう。

けれど、どうしても自分の頑固なところが出てしまうのです。そして私はこんな自分を変えたいようで、変えたくないのかもしれません。「私が欲しいと思ったんだから欲しい」という激情が、ものすごく苦しいのも知っているのに、どこかこの感情を渇望しているようにも思えます。

私だってユニクロのダウンも気に入ってはいるのです。毎日着るならMameのコートじゃなくてユニクロの方が間違いなく便利です。でもしつこく、これでないと嫌だ、手に入らないのが納得いかないという時に湧いてきて身体全部を絡めとる感情は、感情と呼ぶのが相応しいのか悩ましいくらいで、カルマと呼ぶべきものなのかもしれません。もっとバランス良く生きたいと頭では思っていても、本心ではこんな自分を全然捨てたくない。愚かなことだなと思います。でもこの愚かさこそが私という存在の根源のような気がしてもいるのです。


またいつもと同じように自分のことばかりの文章を書いてしまったと心苦しく思っているのですが、ふたりにお手紙を書くという理由をつけてこの文章を書くことができて、なんだかすっきりしました。

それにしても、私が手を焼いているようなこんな執着しきってしまう感情が他の人にも普通にあるものなのか、ふたりに聞いてみたいなと思いました。

それから、人に介入するってどういうことなんでしょう。ふたりは上手にできますか?
私は何かを差し出すまではできるけれど、それを手に取るかは他者次第と線を引いているところがあり、介入することを少し恐れているのかもしれないと自分の身を振り返りました。

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