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往復書簡:真城くんへ。3通目 《まとも》と呪いの話 

なにか書くことを自分に課したものの、書き続けるのはむずかしい。秋生まれの3人が並んで肉を食らいながら、じゃあお互いに手紙を書くつもりで書いてみましょうかと始めた、これは自主トレです。真城くんから受け取ったバトンに、お返事を書きました。

真城くん、お手紙ありがとうございます。
私の書いたことを受け止めてくれて、私の語ったことをかみ砕いて考えたうえでお返事をもらえるということの、こそばゆさと喜びを感じました。

真城くんがお手紙の最後に書いてくれた通り、わたしの中には《まともな人間はこうしている》という声が結構強烈に響いています。

まともな30代ならこのくらいの資産があるべきだ、とか
まともな30代ならまともなパートナーがいるべきだ、とか
まともなビジネスパーソンならこのくらい努力はしてしかるべきだ、とか。

私の実力に対して、その《まとも》ラインは高すぎて、ずっと到達することができません。それに、SNSでファッションやインテリアやライフスタイルが素敵な同世代の姿や、ビジネスにまい進している人の姿を見るたびにハードルはさらに上がります。

《まとも》ラインに達したいけど要領の良い方でもない私は、努力に努力を重ねないと到達するのは難しそうです。そしてこれに惜しまぬ努力ができるほどの意欲があるかというと、「これは世間からの要望に過ぎないから」とどこかでたかをくくっている節があります。

それでも、自分の中の《まとも》ラインを超えていないということにより自分に自信が持てません。そんな自分を、他人の評価に晒すのが嫌なのです。「できてないじゃん」に対し、「そんなのわかってるよ」と思ってしまう。

この《まとも》ラインに達することができず苦しくなったときに、自分で処方するのが「誰も私を気にしてない」と言い聞かせることなのだと思います。そうして真城くんの言うとおり、「他人は私を評価する」と「他人は私に興味がない」という矛盾は、私の中で交互に顔を出し混乱させます。

ここまで書いてきて我ながら面倒な性格だと思います。なぜこうなってしまったのかと原因を探せば、小さい頃に優等生をやってしまったとか、高校時代に頭が良く何でもできる人たちに囲まれてちょっとしんどかったとか、因果関係を見つけられなくもないのですが、どちらかというと生まれつきそういう人間である、という方がしっくりきます。生まれつきだし、ある程度仕方ない。けど、楽にはなりたい。

つくづく、厄介なのは他者ではなく、「《まとも》であれ」と呪っている自分なのだろうと思います。

真城くんが書いてくれた

自分は人から評価されないぞ、あるいは、他人から評価されても大丈夫だぞ、ということを実感するために他人との関係がある。

ということに、心当たりはあります。この往復書簡だってそうですが、自分に対してあたたかなフィードバックをくれる人たちとコミュニケーションしたり、意外な受容をされる経験を通して、自分はこれでも大丈夫かもしれないという薄紙のような自分への信頼を積み重ねていく。ここ数年、そんなコミュニケーションが自分の身の回りにあったおかげで、今のままの自分を肯定できる心持ちの、調子のよい日もあるのです。

しかし、自分の足りない部分や、《まとも》ラインに到達する努力ができない自分の怠惰さに絡めとられて、自分の人生や社会を呪う日もなくなるわけではありません。

そんな時にすがるように呪いを解く術を探してみたりします。するとよくあるのが「他人や自分の些細な良いところをみつける」だったりするのですよね。このやりとりをしながら気が付いたのですが、私の中には「人の良いところを見つけなきゃ」、あるいは「人のことを悪く思ってはいけない」というのがどうも強迫観念的に住んでいる。そうしないと、鏡として私の良いところも人が見つけてくれない、私が他者を悪く思うとしっぺがえしが来そうな気がしてしまうんです。呪いを解こうとして、これはこれで呪いになっていました。

これはただの余談ですが、ゲッターズ飯田の占いでいうと私は「銀の羅針盤」なのですが、「一見しっかりした人に見られますが、言われないとやらない、動かないというさぼり癖、怠け癖がある」とされており、これがあまりに図星すぎて印象に残っており、ことあるごとに「自分は頑張れないやつだから」と頭をよぎります。もはや呪いの言葉です。

人の言葉を素直に受け止め守ろうとする生真面目なところはきっと私の美点なのだろうとも思うのですが、こうして自分への呪いを量産していては一向に楽になりません。

自分を楽にするには《まとも》をもう少し現実のラインに降ろす、及第点はまた別に置くことが必要なのだと思っています。なのですが、いざ考え始めると、どのラインなら自分にOKが出せるのか、優先順位は何なのか分からなくて、「自分の軸」がかなり危ういものだと実感しています。執着のようなおどろおどろしい感情が自分の中にあるのは知っていても、自分が何が好きなのか、みたいなことは結構あやふやで、確信が持てる「好き」なことは少ない。真城くんが好きなことをわりとすんなり見つけているように見えるのが、私にはうらやましく思います。きっと難しく考えてやっているわけではないんだろうけれど、コツを教えてほしいです。

小さいころからごっこ遊びを良くしていた私は、ずっと何かのマネをして生きてきて、自分そのものを確信することが一番難しいことなのかもしれないと、最近思います。

でも、「自分」など「なるようになった結果でしかない」ということも、一方では思ってるんですけどね。なるようになった自分をもう少し素直に愛しせたらなとも。

またすっかり自分語りをしてしまいましたが、これもまた「自分」ということで。


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