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沈殿する

自分はいま過渡期にいるのだろうという感覚を、ここのところ持っている。

と言っても、例えば転職のようなわかりやすいステータス変化を予定しているわけではない。こういうことを根拠をもって説明することは難しいのだが、今までどおりのやり方で努力でねじ伏せようとするとどうもうまく進まない、これまでだったら喜んでいたであろうことがあんまりうれしくない、やたらと断捨離したい、大小そんなことが続いている。それは体力の衰えだったり、仕事や人生の経験値が増えたことだったりが関係しているのだと根拠らしく語ってみることもできるのだろうが、理由は何にせよ、自分の思っていた自分ではなくなっていく、そんなかすかな実感がある。

この数年にはじまったことでもないが、もうしばらく混沌を抱えながら彷徨っていた気がする。でも今年、李禹煥の作品を見ていたときに「沈殿」という言葉が自分の中に落ちてきた。

思い出したのはかつての理科の授業でやった実験の様子。透明な水溶液同士もを混ぜると化学反応が起き、真っ白になる。時間の経過とともに、発生した固形物はに少しずつ底に沈む。

私はいま、そんな沈殿の最中にいるのではないか。外からの刺激を飲み込み、自分の中がかき回され、起きた化学反応。起こった出来事も、幸せな記憶も、苦しかった感情も消え去るわけではない。けれど真っ白になって本来の姿が見えなくなってしまった自分のなかも、徐々に澄んでくる。

沈殿しているのだ、自分のなかが。ちゃんと沈殿していくのだ、様々な出来事も感情も。そう妙に納得した。

化学の実験であれば、ビーカーの中で起こる反応はものの数分の話だが、人格の話であればもっと時間がかかった。けれど、あともう少ししたら以前とは性質のことなった自分が見えるようになるんじゃないか。そんな期待がある。

期待といえども、自分と思っていたものが旧くなっていくということでもある。終わればまた新しいものが始まるのであろうと思いつつも、まだはっきりしない自分の新しい姿に不安を覚える。でもきっと本来は、嬉しいことでも悲しいことでもなく、ただそこに変化が立ち現れるだけのこと。

私は自分が尖った面白い人間ではないのはわかっているから、せめて良識的でバランスのとれた人間でありたいと強く自分に願ってきた。でも、実際のところはずいぶん偏っていて、わがままな人間だ。そのことを自覚し、常識人を装おうとしないほうが健やかでいられるのだろうか。

過去の自分に必要だったものや価値観は、過去の自分にしか必要でなかったのかもしれない。これからの未来にもっていきたいものもあるけれど、それは選ぶのではなくて、多分選ばされていく。

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