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気持ちの良いことーー溶ける意識と震える身体

自分の意識や身体を忘れ、単なる振動となり、空気に溶けていく。

楽器を吹いていると、そんな感覚を持つことがたまにある。

私が熱心に時間を費やしてきたクラリネットは、息でリードという木の板を震わせ、その振動を楽器に伝えて音が鳴る楽器だ。楽器の振動は周囲の空気を震わせるだけでなく、自分の身体の中にも伝わり、共鳴しているのを感じる。

楽器を吹く行為は、呼吸、腹筋の力の入れ方、楽器を咥える口の形、そして細かな指の動きをコントロールすることとイコールだ。自分の身体のくせに思い通りにならないことも多く、自分の身体という最も身近な物体を意識で動かすことと向き合うことでもある。

それでも15年以上向き合ってきたおかげで、歌が下手な私でも、楽器があれば歌える。言葉がなくても表現ができる。最早、楽器は自分を守ってくれながら世界との接点になる皮膚のようであり、声帯のようでもあり、最早拡張した自分の身体にも思えるようになった。

ただ息を吸って吐いて、楽器から伝わる空気の振動だけに集中する。楽器が気持ちよく鳴りだすと、段々と「自分」という意識が空気に溶けていく。時には宇宙やそんな大きな存在に繋がっているように感じることさえある。そうしていると、仕事の懸案事項や、無駄遣いで軽くなってしまった財布の中身や、いつまでも現れない結婚相手といった、普段頭をぐるぐる駆け巡っている問題たちはさらさらと溶けて見えなくなっていく。自分という存在を規定している枠組みから放たれる、私にとって最も気持ちが良い時間だ。

先日、ボルタンスキーというフランスの現代アーティストが手がける展示に足を運んだ。

展示を進んでいくと、真っ黒な衣服が積み重なった巨大なぼた山の傍らに、木の板が真っ黒なコートをまとって佇んでいる。近寄ってみるとそれはこう話しかけてきた。

「ねえ、こわかった?」

Life timeと名付けられた展示は、人が肉体を持って生きて、死んで、名もなき魂になる体験をさせてくれるようだった。

先ほどの、死後の世界の入口の門番のようなアート作品に話しかけられて、私は少しの恐怖と、そして意外にも「心地よい」という感覚を持った。すでに現世に体も自分の意識もおいてきてしまったような、自分という意識から溶けるような解放感が、そこにあった。

「気持ちが良い」と私が感じる瞬間は、どうやら自分という存在の輪郭が溶け、解放されるような感覚を共にしているようだ。自分という意識から解放されることは、なぜ気持ち良いのだろうか。

それは、私にとって「自分」が重たいものだからだろう。

平成元年生まれ。ゆとり世代のど真ん中として、自分のことは自分で決めなさい、というスタンスの親の元に育った。そして、「自分」が真正面から問われるタイミング、就職活動で思い切りつまづいた。

雑誌や本を読むのが好き、そして書くことも好きだったから、出版関係に勤められたらいいな、とぼんやり思っていた。一方で、そういった華やかな仕事に就職し、成功できる人がほんの一握りなことも、もっと学歴が高く、もっともっと書くことが得意な才能あふれる人が同年代にだってごまんといることはわかっていた。それに、雑誌や本を消費するのは好きで強い憧れはあったけれど、激務そうだし、どうしても作る側になりたいという熱意が自分にあるかというと、正直疑問符がついた。そうして、本心から「これがやりたい」と言うことなど、遂にできなかった。

周囲にはこれがやりたい、やってみたい、とてらいなく言っている友達や、私はこんな生活がしたいから、と腹を決めて就活をしている友達があふれていた。実態はわからないが、私にはそう見えた。どこにも腹を決められない私は、なんとなく恰好がつきそうな会社を受けては落ちてを繰り返した。なんとなく人当たりの良さそうに見えるのか、面接で先に進むことはできたけれど、最終面接で落とされることも多かった。覚悟がなかったからだろうな、と今になってみれば思う。

この社会は、やりたいことをやった結果、就職できなかろうと、過労で倒れようと、何もかも自己責任だ。全ての選択が自由であると同時に、重たい重たい責任が付きまとう。でも、未来を透視できるわけもなく、いつも100点の答えを出すことは、もちろんできない。

私は自分がどんな人間なのか、やりたいことは何なのか、どう生きていたいのか、探して、考えて、そしてずっとわからなかった。わからないのに、こうして脈々と、選択を繰り返していくことが怖く、寂しいと、今でもよく思う。

この厄介な「自分」という意識の苦しさから自由になれることは、心地が良いことだ。この重たい自分という枠組みを軽やかに脱ぎ捨てられたら、もっと気持ちが良いんだろうか。それならば、「死」は最も気持ちが良いのだろうか。

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最近、新たなクラリネットを買った。

新しい楽器に向き合う過程は、慣れ親しんだ楽器に触れるのとはまた違った趣がある。長く使ってきた楽器と違って、思ったようには鳴ってくれない。

息を吹き込み、楽器が一番気持ちよく鳴ってくれるポイントを探す。ポイントを見つけ出して鳴らし続けていると、だんだんと楽器も呼応して気持ち良さそうに鳴りだす。まだへそを曲げられることも多いけれど、回数を重ねると反応も早くなって来る。相手の気持ち良いポイントを探すコミュニケーションは、セックスにも通じる身体的な快楽を感じる。

他人と一緒に楽器を演奏する行為には、より官能的なものを感じることがある。相手の気配を読み取ってタイミングを合わせ、相手の息に自分の息を重ねる。相手が作る抑揚に合わせて自分も動き、自分の動きに相手がついてくる。時には凌駕されるようなこともある。恋愛感情や性別は関係なく、音の波に包み込まれ、自分が溶け、相手と溶け合う。そしてそれは、どうしても気持ちが良いのだ。私が楽器の中でもどうしても管楽器が好きなのは、息という最も身体的なもので音が鳴らされていて、こんな身体性を強く感じるからかもしれない。

楽器を吹く時、身体に集中することで「自分」という意識から解放されると言ったが、「自分」をこの世界に繋ぎ止めているのもまた身体だなと思う。いかにも生物学的な快楽が、小さくてもこの世に自分を留めている強い理由になっている。


現実を見ろという正しそうな教えも、自分の憧れの姿のようなものも、どちらの枠組みも時には自分を重く苦しめる枷になる。クラリネットはどんなに頑張ったってピアノのように幾つもの音は同時にならせないし、ヴァイオリンの音は出せない。憧れたからといって、他の枠組みを無理やり目指しても、苦しいだけで到達することはない。クラリネットはクラリネットのままで、そのままだからこその役割がある。

身体を持って生きている以上、身体の気持ち良さにもっと焦点を当てたら良いのかもしれない。

楽器が気持ちよく鳴ってこそ自分という重苦しい枠から外れるように、自分の気持ちよいポイントをひとつひとつ見つけていくこと、自分を発見していくことが、逆説的だけれど自分から自由になるための鍵なのではないか。自分の身体が楽器だとするならば、意識の側は、身体が気持ち良く心地よく居られる場所に運んでいってあげれば、それで良いんじゃないか。

休日に朝寝坊してから食べる朝食がたまらなく好きなこと、クローゼットのハンガーを一種類でそろえること、寒い日に入る露天風呂が最高に幸せなこと、難しい楽譜を吹きこなせるようになること、仲間と目標に向かって一緒に走ること。大小さまざまな気持ちいいポイントを探して、味わいながら、日々をつないでいければいい。

大苦戦した私の就職活動は、心配してくれた人のつてをきっかけに縁が縁を呼び、何とか就職することができた。思いがけない配属や、異動や、転職といった紆余曲折を経ながら、社会人8年目を迎えている。自分のやれることやれないこと、許せること許せないことを少しずつより分けながら、今までなんとかやっている。自分の稼ぎだけで都内に住んで、たまには旅行に行けるくらいの好きな生活ができているのだから、まあ十分じゃないかとも思う。私は私で、そんなに悪くない役割にたどり着けているのかもしれない。

人生は、自分では抗いようのない力によって規定され、流されていくものだと思う。何かを意図してどんなに手を尽くしてやったところで、良くも悪くも思った通りにならず、運命や神様のいたずらとしか思えないことがたくさんあるということも、もう知っている。

大きな流れに抗っても、動かないものは動かない。どこに行ったら良いかわからないならば、好もうと好まざると勝手にやってくる流れに乗るしかない。潮目を見つけたり、漕ぎ出したくなったりした時に自分で舵を切る術があるように、オールだけ握っておければ十分、と肩の力を抜いて、しばらく気持ち良く漂ってみようかと思っている。


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