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萩原健一の祝祭感

カメラをずーっと引いて広角に、人生を俯瞰してみれば、貧窮も災厄も「祝祭」である。
キリスト教では死ぃさえも。

ショーケンにはそして、常に祝祭感が伴う。八つ墓村のアレでさえ、音楽はもちろん。
プライベートじゃ度重なる離婚に交通事故、暴行脅迫・大麻所持だの何やかや。それでも何処かカーニバル的なのは、よく言えば、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーのカーニバル論』(※)を思わせなくもない。
※ ドストエフスキーの作品は、『罪と罰』にせよ『カラマーゾフの兄弟』にせよ、葬儀の場面でみんな大騒ぎ。ぺちゃくちゃ喋って酒を飲み、お祭状態なのである。

この6月からいよいよ宝塚宙組が公演開始と聞く。死人が出たのは悼ましいが、総じて言えば宝塚もまた「祝祭」だ。
ここで「あなた、それ被害者の前で言えますか」などと言ってはいけない。これこそ馬鹿の常套句で、返す言葉「じゃあそれ、芹香斗亜の前で言えますか」同様、何の意味もない。
そもそも位相が違います。

自分は何も〝宝塚歌劇は死人を込みで祝祭だ〝などと言っているのではない。そうではなくて、作品自体が常に祝祭だ。そう申しておるのだ。

人生はあくまで、どこまでも個人のものだから、なかなかに他人とシェアはできない。細胞や免疫自体が内部と外部を峻別するから、そもそも物理的に(生物学的に)これは不可能だ。
ただ、精神のみが想像力と共感を以て可能にする。キルケゴールがいう、

「人間すなわち精神だ」

の所以である。

芸術や表現はこの点最たるもので、ほぼほぼ他人のフィクションに、客は共感・同情する。涙を流すこともある。
リアルの隣人には全く関心がなくても。これこそ「不思議」じゃなかろうか。

己に限っていうならば、貧窮災厄は忌まわしい。避けたいし、降りかかってくれば火の粉を払うほかはない。今や米軍の2軍と化したが、かつての自衛隊/専守防衛的にも。
ただし、災厄はいつまでも災厄に留まらない。長い時間の経過の果てに、実はこれこそ祝祭だった。そう思える時が来る。「時間の有効性は歴史が証明しておる」。

ショーケンは、表現者としても個人としても、これを体現した人ではなかったか。何より音楽や芝居を通して他者に共感共鳴・祝祭感を与えたので。

アンドレ・マルロー85年、よみうりランドEastにて。
◆シャララ

https://youtu.be/D1W1UiPbGWI?si=rAkyzcrJnaiWdxX9

葉っぱを投げた客がいる。大麻を所持して逮捕された萩原健一の佇まいが面白い。

次いで珠玉のR &Bは、
◆鈴虫(九月朝、母を想い)

https://youtu.be/TOIHAtIS_bU?si=IeL7uFpo0n0_ZDuA

葉っぱを食って拘留された氏。
◆54日間、待ちぼうけ

https://youtu.be/MDbKj5tSiyg?si=k7lgAngd4Yfyymkd

しかしてショーケン聴きつつ今朝までオールしました。ガッツリ飲みながら。
この祝祭感が、貧窮込みで我が人生を思わせたので。あとはただ、神に任せまつれ。
もう皐月賞なんか、どうだっていいんだよ低脳。

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写真はあくまで、イメージです


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