古いものは固くなる
桜が咲いている。
と言っても今年の桜を今日初めて見たわけでもない。
通勤の傍ら、何度か蕾交じりの可愛いその枝を目に舌。
特に先日、息も絶え絶えな方を車に乗せて施設近隣まで同乗した際に見上げたブルーの空にピンクの桜が美し過ぎた。
昨年の今頃はどうしていたかな?と、いつもこの時期に思うのだが、特に昨年から今日、今、この時期のことは生涯忘れられないことばかりになったと思う。
***
昨年の2月半ば、一年ぶりに特養に勤めたのだ。ここで色んなものを目にした。間違っていることを正すことの難しさも知った。
「新しいことを急に言われても・・・」と言われて、こちらが絶句した。何しろ、彼女たちが言う新しいことというのは、世間一般の高齢者施設ではそれでも10年くらい前のやり方だったから。
一つところに長く務めることは素晴らしい。
でも、それはあくまでそこに居る人たちがきちんと新しいことも勉強している場合に限る。
誰もが自分の都合の良いやり方で、自分のためだけに仕事をする何とも奇妙な職場、奇妙な人間になってしまうから。
もうすぐ定年を迎える他課の主任は、看守と囚人のような人間関係を気づきあげて満足していた。利用者様に対しても職員に対しても。もっと悪いのは、それを誰も注意して来なかったこと。
主任陣を面談して一番疲れたのは、この人相手のときだった。「誰も私のいうことを聞いてくれない。誰も私に話してくれない。」の一点張りで他の人々の面談の3倍もの時間を要した。まあ、これは他の会議や会話においても話を長引かせようとするこの人の無意識の手段なのだけど。
何故に内容が幼過ぎると感じるのか?というと、それが自分のことしか考えていない人のエピソードだったからだ。
施設を良くして行こう、利用者さんの生活を豊かにしていこうという視点の話題をふっても「寂しいです。誰も私を・・・」の繰り返し。
その殻に引き籠った状態のまま周りを変えようとしているのがその人だった。
人は感謝の欠片もなくあたりまえのように人様の時間を使っていると幼いままの苦しみを抱えるようになり、耳は退化し感性は歪み何一つ受信できなくなる。
前に出よう。外に出よう。
そして決して人前でぶつかったらめっちゃ痛い固い鎧を着たままで自分の世界に籠ることがないように。
その重い扉を開けて、この鎧を脱がせてくれたら話します。そしたら私は独りぼっちじゃないと判断します。でも、あなたは痛くても裸で来てね。待つのも嫌いだから今すぐ来てね という横柄な大人にならないようにしたい。
そういう人を置いて行くのは冷たい人とは限らない。ただ「面倒です」と言える健康な人というだけだ。
頑張って時間作ってそちらの世界に寄ったところで甲斐がないことを誰もが知っている。
自分が動かなければ世界も人も変わらない。人を動かそうと思っていじけてみせて何十年。その結果は。
正確に言うと実は世界は変わっている。そこだけ古い空気に覆われているだけだ。
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